11月25日
2001年11月25日

「命へ呼び覚ます務め」

使徒言行録9:32-43


 使徒言行録は、ステファノの殉教の死からパウロの回心を伝えたあと、再びペトロ

の働きを伝えることに戻ります。しかし、もはやエルサレム教会での働きではありま

せん。「ペテロは方々を巡り歩き、リダに住んでいる者たちのところへも下っていっ

た」この短い言葉は、教会が教会に成長していくための重要な務めをわたしたちに想

起させます。迫害によって散らされていった人々は、ひるむことなく福音を伝えて行

き、そこ、ここで、主を信じる者の群が生まれてくるという驚くべき生命力を示して

います。しかし、それらの伝道によって生み出された点のような群が、互いに連帯す

る線によって結ばれ、更に面となり、生きた体となって、一つの、公同の、使徒的な

教会に成長して行くのか、これは聖霊の働きさしにはなしえないような高度に生命的

なことがらです。この教会の不思議な連帯と共同は、いまも全世界に広がっているキ

リスト教会において見ることができますが、ここに、聖霊の働きを現実的に展開する

具体的な働きが示されています。実に単純なことです。使徒ペトロができたばかりの

使徒の群を巡回しているのです。この単純にして重要な使徒の務めの意義を見逃して

はなりません。キリスト者が他の教会を訪ねるのは、実に教会を作り上げていく制令

の働きに参加していることになります。

 巡回するペトロがそれぞれのところで行っている働きはなにか、それは監督や訓戒

ではなく、ここに伝えられているのは「いやし」です。8年間床に横たわっていたア

イネアという人の癒し、そして、ヤッファのタビタという「女弟子」の死から命への

呼び戻し、「アイネアよ、イエス・キリストがいやしてくださる。自分で床を整えな

さい」、「タビタ、起きなさい。」ペトロはそれぞれの教会で主イエスの名によって

命へと呼び覚ます呼びかけをしています。それぞれの癒しの情景は、福音書の主イエ

スの癒しの出来事とよく似ています。ただ、それを行うのが主イエスではなくペトロ

であるということ、そして教会の中でそれらの癒しが行われていることだけが違いま

す。ペトロは教会の中で無謀と思われるほど単刀直入に、人間の病と死の現実に対し

て主イエスの名を持ち込んでいます。ペトロは、主イエスは生きた霊によっていやし

てくださるという知識と、目の前にいる人は癒しを必要としている、この二つの認識

を結びあわせているだけです。この単純な、あまりにも単純な結びつきのことを、わ

たしたちは軽く考えてはなりません。主イエス・キリストの復活の命をいただく群れ

と群れをつなぐ巡察使ペトロの、まさに本質的な務めが、ここに示されているのです

から。


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