マルコによる福音書1章1−15
イエス・キリストはだれであったか、イエスをどのような方と信じるかはキリス ト教の信仰の要です。そのイエスが語ったこと、行ったことの全体が要約されてい るのが、「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という ことばです。 マルコ福音書は、実に淡々とイエスの活動のはじめを伝えます。まず、バプテス マのヨハネという人物のことを伝えて、イエスもヨハネの下で洗礼を受けたことが 明らかにされます。それから荒れ野でしばらくの時をへて、ヨハネが捕らえられた 後、ガリラヤに行ってのべ伝え始めたというのです。この淡々とした言葉の中に、 大切な意味が示されています。イエスが人々と触れ合い、語りかける場所は、ガリ ラヤです。ヨハネのように荒れ野やヨルダン川に人々を誘うのではありません。日 常性を離れて、特別な修業の場所でなければ、イエスに出会えないのではありませ ん。また、イエスはエルサレムのような神殿の場所、政治と経済と権力の中心で自 らを現すのではありません。「異邦人のガリラヤ、暗きに住む民」といわれたガリ ラヤ、地方、辺境、自分の育ったところです。イエスの活動を見ると、「〜の町に 行ったとき」、とか、「道を歩いていたとき」の言葉や働きが多く記されています。 普通の人の普通の生活の中に、まさに、神からのうれしい知らせが伝えられ、いい ものはみんな遠くを通り過ぎていくような生活をしている人々の所に、イエスは歩 み入って、福音を告げ知らせています。 イエスは、「時は満ちた。神の国は近づいた・・・」といいます。「神の国は近 づいた」ということばのもっている激しい訴えの勢いを感じ取る必要があります。 「神の国」というのは、神の支配が世界の隅々にまで行き渡っている状態のところ です。空間的というより、質的な概念です。そこでは、捕らえられているものは解 放され、目の見えないものは見えるようになり、歩けないものは飛び跳ねて歩ける ようになる、暗闇に住んでいるものは光を見るとうたわれていました。イエスは、 その「神の国」が、今まさに近づいている、すぐそこに来ていると語って、聞いて いる人々に神の国の解放の現実を目の当たりに見るようにしています。部分的なう れしいことが起こったというのではありません。まったく新しい時代、新しい国が 来たというのです。主イエスに出会うことは、わたしたちにとっても、まことに、 わたしたちの日常的な現実の中に、「神の国」が到来し、その新しい現実がはじま っていることが知らされます。秋山牧師の説教集インデックスへ戻る