使徒言行録10:34-48
ペトロがローマの百人隊長の家に到着して、その家に集まった異邦人の人々に福音 を語っているうちにちょうどペンテコステの時のように聖霊が一同の上に降り、その 人々に洗礼を授けた。こうして、福音がユダヤ人だけでなく異邦人の群れを生み出す という画期的な出来事へと発展しました。 さて、最初の出会いのところで、ペトロはコルネリウスとその仲間の人たちに、「 神は人を分け隔てなさらないことがわかりました」と言っています。これは聖書の独 特の言葉で、人を顔の色や性別、人種、改装などによって偏ってみることをしないと いうことです。ペトロはどのようにしてこの考えを獲得するにいたったか、このこと をよく見てみましょう。この一見当然のように見える考えは、人は平等だ、差別はい けないなどという市役所の垂れ幕のスローガンのようなものによって得られたのでは ありません。博愛主義や平等主義など、一般的なかけ声にすぎない考えは、異種の人 間と出会う現実においては実際的な力を持たないと言うことは、わたしたちが日頃経 験していることです。ユダヤ人ペトロが、この言葉を異邦人コツネリウスの家で多く の人の前で語ったと言うことは、それ自体が一つの歴史的な事件です。異邦人の家の 客になることによって、あえて律法をおかし、反社会的な行為へと駆り立てられてい った自分の内に起こった聖霊の導きが、コルネリウスの内にも起こっていたことを知 らされ、真剣な神の御旨を問う異邦人の群れに出会ったとき、発見され体得された審 理として、「神は人を偏り見ない」という知識に達しているのです。聖霊はその事態 へと狭い人間を引き出します。 しかし、このペトロの重要な発見は、ここで終点を迎えたのではなく、単なるはじ めにすぎないということに注意しなければなりません。ペトロは促されるままに、主 イエス・キリストについての福音を語ります。神からのメシアを人々は殺した。神は 三日目にこの方をよみがえらされた。これによって神の義と裁きと愛とが示され、自 分はその出来事の証人であることを語ったのです。するとこの言葉が水のように人々 に飲まれ、生き返らせ、火のように熱い言葉として熱を生み出し、生き物のように働 き、人々の中から新しい言葉、神を賛美する言葉がほとばしり出てきたのです。聖霊 が注がれたのです。神は人を同じように造られただけでなく、罪を赦し、新しい命を 受けるものとして分け隔てをなさらない、聖霊はこのところまで低く下ってくださる 神を示して、かたくなな人間を引き出し、隔ての壁をうち砕いてくださっています。 教会はこのようにして世界に広がっています。