12月23日
2001年12月23日

「異邦人にも命にいたる救いが伝えられた」

使徒言行録11:1-8


 神の御子が人となり、わたしたちのところを訪れてくださるのは、ベツレヘムのク

リスマスの馬小屋にだけではありません。異邦人であったコルネリウスが洗礼を受け

てキリスト者になったことを、教会はどのようにうけとめたか、これもそのことを考

えるよい素材です。他の使徒たちもまたユダヤ人の兄弟たちも、ペトロへの非難と査

問ということへと展開してゆきます。しかし、ペトロが懇切に事情を説明したとき、

「この言葉を聞いて人々は静まり、『それでは神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与

えてくださったのだ』といって神を賛美した」という結論にいたったというのです。

このような幸福な終わりはどのようにして起こったのか、このことをよく思い巡らせ

てみましょう。

 まず、この出来事が喜びではなく非難という反応を引き起こしたことについて、し

かも、異邦人をキリスト者の集団に迎え入れるかどうかという問題を考えて議論があ

ったというのではなく、ペトロが異邦人の家に入って食事をしたことを問題にしてい

るのです。中心的なことではなく周辺的な、手前の議論によって、事柄の生命的な本

質が見えなくなっている、どこにでもある現象です。しかし、このような非難と議論

の過程は、ここで必要な過程でした。事柄を当たり前のこと、しかし、周辺的なこと

として無関心に何も変わらないままであったなら、それはもっと悪いことです。異邦

人をキリスト者の仲間に迎えるということは、一緒に聖餐に与る仲間になるというこ

と、それはユダヤ人の仲間からは律法違反者としての汚名をこうむり、社会からは決

別するということを意味します。一人の人を教会に迎えるということは、それによっ

て教会全体も一つの危機を覚え、変わらなければならないことを意味するのです。ペ

トロに対する非難は教会にこの現実と直面する機会を与えたことになります。

 ここでペトロがとった態度は「謙遜」の性格によって彩られています。非難された

ことを怒るのではなく、懇切に丁寧にことの経緯を説明し仲間を動かしているのです。

この謙遜はどこからくるのか。それは、起こったことが自分の中からある確信に従っ

たことではなく、彼自身も変えられたことの驚きと感動があるからでしょう。また、

聖霊が導いてくださることに対する信頼と畏れ、服従があるからでしょう。それを聞

く使徒たちやユダヤ人の兄弟たちも、また聖霊の働きに対する信頼と服従に貫かれて

いる姿を見ることができます。こうして、キリスト教会は一つの大きな突破、もはや

民族や人種に固定しない信仰へと発展するのです。


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