19980118
1998年1月18日

「信心に秘められた真理」

テモテへの手紙T3章14−16


 牧会書簡の中には初代教会の礼拝で歌われた讃美歌と見られる言葉がいくつかあ

ります。ここに取り上げるのもその一つです。

「キリストは肉において現れ、

  霊において義とされ、

 天使たちに見られ、異邦人の間で宣べ伝えられ、

  世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。」

これは明らかにキリストの讃歌ですが、この歌がおかれている文脈は、教会の奉仕

者、役職者である監督と執事にたいして実際的な勧告がなされているのに続いてい

ます。そこには、キリスト教会のなかで霊の賜物を与えられた特別な人に対する勧

告はあまり見受けられません。「酒におぼれず、乱暴でなく、寛容で争いを好まず、

金銭に執着せず・・・」。これは特に教会的な徳目ではなく市民社会の中の生き方

と変わりません。ということは、教会の役職者も、酒におぼれたり、金銭に執着し

たり、特に意地悪であったりするような現実があったということでしょう。そのよ

うな第二、三世代の教会の現状に対して、健全な教えに従って正しい良心を持ち、

上品で落ちついた生活をしつつ、信仰の闘いを立派に勝ち抜いて永遠の命を手に入

れるために、ちょうど軍隊の指揮官に求めるような徳目が並べられているのです。

 俗悪なものに流れていく傾向にある教会を、隊列を整え、秩序を保って信仰の闘

いを戦い抜かせるための健全な教え、それが、真理の柱、真理の基礎である教会の

中で歌われる「キリスト賛歌」の中にあるというのです。このような教会の日常性、

現実性と信仰の告白、讃美との関わり方は興味深いものがあります。ここで直面し

ている日常性は極めてリアルで、わたしたちの日常性と共通します。この日常性の

中に、唐突な感じで讃美が現れて、キリストへの信仰が高らかに歌われ、非日常的

と思われる讃美に、現実的なもの、日常的なものが包み込まれ、救いとられている

のです。

 この讃美によって歌われている内容は、天上の世界、我々が到達することのでき

ない神の領域においても、また人間の世界、我々の現実世界においても、イエス・

キリストは明らかにご自身をあらわされ、権威を持ってその栄光をあらわしておら

れると言うことです。その現れは異邦人にまで及び、全世界で信じられている、と。

このキリストにある天と地を覆う現実が、わたしたちの俗悪に流れやすい現実を包

み込み、貫くこと。確かに、キリスト者はこのことを讃美することができます。

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