1月19日
1997年1月19日

「神のかたちに人を創造された」

創世記1章6−28


 神の天地創造の記事は、信仰告白、神に対する讃美と感謝と信頼とが深く言い表

されているものとして読むと、その意味がよくわかります。混沌の中から第一日目

は光が呼び出され、闇と混沌の支配ははっきりと区切られます。二日目は大空が造

られ、光の空間ができます。そして、その中に渇いたところができ、ここにすべて

の草や木が生え出て、自ら種によって再生産をしていきます。光の空間の中に緑に

輝く大地が創造へと呼び出される、これが三日目。四日目は太陽と月と星が造られ

て、昼と夜の規則的な交代が生まれます。ここで時間の観念が意識されています。

太陽があり月があり昼と夜がある、これは世界の成り立ちの上で非常に重要で感謝

すべきものという自覚です。五日目になって水の中や大地に生きて動くものが神の

創造の世界に呼び出されます。世界には人間には全く思いもかけない生き物がいる

ということをよく知っていて、水の中に群がるものとか怪物も造られた物の仲間に

入れています。この生き物には「産めよ、ふえよ、地に満ちよ」という、神の祝福

が与えられています。そして、六日目です。ここで、獣、家畜、地を這う物、そし

て人間が造られます。人間の創造は、「神のかたちにかたどって、神に似せて造ら

れた」ときわめて興味深いことばでかたられ、これに地の生き物を治めさせようと

言う、特別な使命と責任を負わせています。しかし、人間は他の動物たちと同じ日

に造られているのです。

 このように、神の言葉によってすべてのものが創造へと呼び出され、一つ一つ、

神によしとされ、夕となり朝となって秩序正しい繰り返しによって世界が造られた

ということ、わたしたちはこのような世界の中に生きていると感じて生きているで

しょうか。わたしたちが生きている空、立っている大地、今の時は、わたしたちが

造った物ではないことは明らかですが、このように神によってよしとされた世界に

生かされていることを知って生きているでしょうか。

 これは明らかに、人間中心的な、独善的な、自然破壊型の世界観、自然観とは異

なります。人間が生きるためにどれほどのものが備えられなければならなかったか

を考えただけでも、へりくだって、感謝しつつ、つつましく生きなければなりませ

ん。人間は人間のためだけ生きるのではなく、この世界を治める責任が与えられて

います。神の創造の秩序を知り、それに即して、良いものとして造られたものがよ

くなるように治める責任です。わたしたちの毎日は、このような責任を果たしてい

る毎日でしょうか。生きる喜びは、ここから来るはずです。

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