19980125
1998年1月25日

「主イエス・キリストの健全なことば」

テモテへの手紙T6章2b−16


 「神の人よ、・・正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。信仰の

戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい」

 ここに記されているのは初代キリスト教会の教職や奉仕者の任職の時に用いられ

た「任職式文」だといわれています。キリストの体である教会が確かに生きたキリ

ストの姿を目に見える形であらわすことになるのは、その中で働いている奉仕者の

働きによってです。その人々はどのようなことばによってキリストのための奉仕に

押し出されていったのか、初代教会の人々が生かされたことばをここに見ることが

できます。

 教会の奉仕は、神からいただいた霊の賜物がはじめから見える形であるのではあ

りません。自分の中にあるものを求めに応じて気前良く分けていれば奉仕の働きに

なるのではありません。イエス・キリストの招きに答えて、自分を捨て、仕え、無

償で、しかも多くの非難と中傷にもまれ、失敗と挫折を繰り返す、まことに弱い人

間によって、すべての人を救う神の恵みと愛があかしされるのです。ときには迫害

や殉教という事態にまで追いつめられながら、しかしこのような奉仕の働きはやむ

ことがなく続けられてきました。どのようなことばがこのような奉仕者を、その本

来の奉仕の業へと駆り立てるのでしょうか。

 ここで、「神の人よ」と呼びかけられ、「追い求めなさい」とすすめられている

ことに注目しましょう。「神の人」というたいそうな名前で呼ばれているのがキリ

ストのために奉仕すべく招かれている人です。それはその人の内実、実質に従って

そのように呼ばれているのではありません。また、何かに到達したからそのように

呼ばれて呼ばれているのでもありません。主にあって神のためになにかを追い求め

る人であるから「神の人」なのです。キリストのための奉仕の務めは、何かを持っ

ている人が消費的に働くのではなく、正義、信心、信仰、忍耐、愛、柔和を追い求

めて、戦い抜くはたらきだというのです。奉仕すればするほど人間に絶望する働き

方ではなく、ますます愛と信仰と希望が増し加わっていくような働き・・・。確か

に実際にやってみると、そのようであるのに気づかない人はいないでしょう。

 さらに、奉仕者に対して「ポンテオ・ピラトの面前で立派な宣言によって証しを

なさったキリスト・イエス」を意識しながら奉仕の働きをするようにすすめられて

います。使徒信条の告白形式を想起させることばですが、十字架の苦しみと復活の

恵みによってなしとげられた贖いが奉仕者自身にとっても、また奉仕をする対象に

とっても、「来るべきもの」であって、それ以下の働きを規範としてはならないこ

とを明らかにしています。そのようなキリストの完全な現れを待ち望みつつなされ

る働きが「神の人」の奉仕の働きです。
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