1月26日
1997年1月26日

「神の造られたもの、それは極めて良かった」

創世記1章23−2章4a


 人間とは何者か、わたしとは誰か、と言うわたしたちの息せきった問いに対して、

この創世記の言葉は、全く違った方向を向いて答えます。これはわたしには才能が

あるとか、何かが人より優れているとか、わたしたちの中にある何かを見つけて出

てきた答えではありません。他者や自然、わたしたちが生きている世界を見ること

によってでてきた答えでもありません。それらとは全く違った方向からのことばで

す。神が特別な決意と、特別な親しさと近さをもって人を創造され、こうして人は、

他の神が創造されたものと共に、生きたものとなったのです。

 神が特別な決意と特別な親しさをもって人間を創造されたということは、この創

世記のはじめの言葉の中で様々なしるしによって明らかです。そのことをもっと中

心的に言い表す言葉は、「我々にかたどって、我々に似せて人を造ろう」という不

思議なことばでしょう。造られたものは「神にかたどって、神に似せて造られて」

います。人が神のかたちとして、神の権威や意志を現すものとして造られるのです。

神が一人称複数形で語られているのも不思議です。これは、天の軍勢、天の宮廷の

ようなものを想定し、神がそのような天使的存在の中心におられると考えて、人間

をすべての被造物の中で特別に神を中心とする天的存在に近いものとして造られた

ことを現していると考えることができます。そこで、「我々にかたどって、我々に

似せて」人間を造ったということは、二重の意味があるといわれます。すなわち、

一方では、人間の尊厳性、優越性がいいあらわされています。しかし、他方、この

ことばは、人間の低さを言い表しています。即ち、人間は神のコピ−にすぎないの

です。人は神のかたちと言ってもおぼろげなかたちであるにすぎません。人は神で

はない、「わたしはある」と語られる神ヤハウェのおぼろげに似ているにすぎない

ということです。

 しかし、神はお造りになったすべてのものを御覧になったとき「見よ、それは極

めて良かった」といわれています。神の造られたものは一日、一日、それぞれ良か

ったのです。しかし、最後にご自分のかたちに人間を造られ、そのお造りになった

ものをこれにゆだねて治めさせられたとき、創造の業は完成し、それは「極めて良

かった」のです。わたしの存在も、この「極めて良い」の中に入っています。そし

て、わたしの隣人も、他の生き物も、天も地も、「極めて良い」のです。わたしが

そのように見ることができないときも、神はそのように見て、極めて良いものとし

て造られているのです。

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