使徒言行録12:1-19
ユダヤの王ヘロデ・アグリッパが教会の弾圧に手をのばし、12使徒の一人ゼベダ イの子ヤコブを剣にかけて殺し、これがユダヤ人を喜ばせるものであることを知って、 更にペトロをとらえて牢に入れた。嵐の中でなすすべもなく激浪に翻弄されているよ うな教会の様がここに描かれています。ヘロデ王の政治的な意図と民衆の願いが一致 して、主の教会を抹殺しようとしています。何の支援もないままで捕らえられ殺され ていくヤコブ、そしてその死はなんらの歯止めにもならないで、次にいよいよ使徒の 中の第一人者ペトロにまで逮捕の手がのびる。教会はここでもなんら抵抗のために立 ち上がることはできません。組織的な権力、暴力に対して教会の組織や集団は無力で す。信仰者はこのような場合、結局一人だけでこのような敵対する力に立ち向かわな ければならないことがある。殉教とはこのような事態です。このような恐ろしい孤立 は信仰者にとってあり得る可能性の一つであると覚悟しなければならないことを、こ の初代教会の出来事は伝えています。このようなとき、教会はどうするか。「教会は 彼のために熱心な祈りが神にささげられた」のです。祈りによって孤立無援の事態と 結びついています。ここで祈りがなされると言うことはどういうことか。そこで主イ エス・キリストの苦しみと復活に結びついているということです。「主の苦しみのな お足りない所をわたしの身体をもって補う」とパウロは語りますが、艱難に孤立無援 で立ち向かわなければならないとき、そこでこそいっそう近くに主イエスの存在を感 じるのです。またある兄弟姉妹は、そこで自分の殻の中に閉じこもるのではなく、ま たばらばらに離散してしまうのではなく、一つに集まって祈るのです。この絶望の事 態、孤立の事態は祈りにおいて連帯するときになっています。 ペトロは裁判に引き出される前夜、天使によって牢の中から導き出されます。祈っ ていた仲間の所へ戻るときのユーモラスな情景が伝えられています。ここで興味深い のは、天使が眠っているペトロを起こして、牢から解放されて行く過程です。自分の 足で経たせ、帯を締め、靴を履き、上着を身につけていこうとさせるのです。翼を与 えて、というのでも獄の戸を破って、というのでもなく、自分の足で歩いて解放への 道を歩ませています。ペトロの力に応じて助けています。どうしてそのような回り道 のやり方で解放しているのか、それは、ペトロと教会が、自分の言葉で主が行われた 御業を悟り知り、自分の言葉で感謝と讃美をささげることができるようにしてくださ っている、そのためでしょう。