創世記11章10−32
創世記の1章から11章までの創造物語は、主として二つの資料が並行、あるい は混在しています。基本的には、しかし、同じ構造を持っています。祭司典といわ れる資料の方は、一日一日創造の業がすすめられ、最後に「神はお造りになったす べてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」と記します。人にも生 き物にも「産めよ、ふえよ、地に満ちよ」と祝福し、人には「地を従わせよ」とい う特別な責任と使命が与えられます。完成があり、安息があります。J典の方は、 命の息が吹き込まれた人間が土を耕すことによって、「見るからに好ましく、食べ るによいものをもたらす木を地に生えさせられ」、人をエデンの園に住まわせ、ふ さわしい助け手を造り、ついに人の肋骨から女を造ります。「ついにこれこそ、わ たしの骨の骨、わたしの肉の肉」という歓喜のさけびがJ典の描く創造のクライマ ックスです。 しかし、このように完成された世界は人間の神のようになろうとする思いと行動 によって、どんどんこわされていきます。善悪を知る木の実を食べたアダムとイヴ、 その子のカインとアベルの兄弟殺し、カインの裔のレメクの気味の悪い粗野な歌。 そしてノアの洪水物語。「主は地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを思い計 っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた」こ れはJ典。祭司典は「この地は神の前に堕落し、不法に満ちていた」と描きます。 こうして混沌と闇が支配する創造以前に戻ってしますことが起こります。 ノアの家族によって生き延びた人類は、しかし、その正しさと清さの故に生きる のではないのです。神の忍耐と寛容によって生きることになるのです。創造物語の 最後は、J典の場合はバベルの塔です。神のようになろうとして言葉を乱され、一 つになることができず地の全面に散らされていった話。祭司典はノアの息子セムの 系図を記し、テラにいたりカルデアのウルを出発してカナン地方に向かったこと、 文化の中心から散らされていく様を描いて終わっています。ここからアブラハム、 神の選ばれた民の歴史が始まるのです。したがって、創造物語の最後は、「散らさ れていった」です。完成と安息は「拡散」と「孤立」という結末で終えるのです。 聖書はこのような構図で人間と世界のはじめと、現状を考えるように教えていま す。それは美しく甘美な世界像ではありません。しかし、まことにリアルな、現在 の世界を見るときにも生きている像だといえます。イスラエルの歴史、神による「 救済史」はこのような拡散と孤立の世界のただなかではじまるのです。秋山牧師の説教集インデックスへ戻る