2月10日
2002年2月10日

「偶像から生ける神へ」

使徒言行録14:1-20


 パウロとバルナバの小アジア・ガラテヤ地方の伝道旅行が続きます。ピシディア州

のアンティオキアからセヴァステ街道を南下してこの地方の中心都市イコニオンへ、

更にリカオニア地方のリストラへ。これまでのところと同じように福音をのべつたえ、

同じように信じる者と反対して立ち上がる者が出て、やがて別の町に移っていく、こ

の繰り返しです。イコニオンでは「異邦人とユダヤ人が指導者たちと一緒になって二

人に乱暴を働き、石を投げつけようとしたとき・・・難をさけた」と記されています。

それでも、彼らは「主を頼みとして勇敢に語った」のです。なぜ、彼らはこのような

迫害を避けて、信じる者だけを起こすような方策をとらないのでしょうか。もっとこ

の世との出会い方を考えて、自分の仲間を増やしていく方法を考えてしかるべきでは

ないのか、初代教会以来の伝道の歴史は、わたしたちにこのような疑問を起こさせ、

伝道とは何かを考えさせます。福音を伝え、イエス・キリストの死と復活を明らかに

することによって神の国の到来を告げるいとなみは、人間がそれぞれに心に抱くある

信仰や確信を他の人間に伝えて仲間を増やしていくということとは違うところがあり

ます。それは本来、「神の言葉」を「人間」に伝えることであって、それを語る者は

神のメッセージの伝達者です。したがって、伝達者の責任は相手が受け入れようと受

け入れまいと、とにかく伝えるということで、聞く人の反応によって伝達内容を変え

たり、伝えなかったりすることではない。そこで伝えられる言葉は、人を造られた神

からの言葉であるから、一人一人聞く者に無関心に聞きすごされることはなく、かな

らず信従か反抗かの反応を引き起こす。パウロとバルナバの伝道の姿勢はこのような

土台の上に立ったものと考えなければ理解できません。それが「主を頼みとして勇敢

に語る」ということです。

 リストラでの働きは、また伝道が何かの別の側面を明らかにしています。生まれな

がら足の不自由な人をパウロが癒したことに驚いたこの地方の人たちがバルナバをゼ

ウス神にパウロをヘルメス神に見立てて、雄牛や花環をもってきて礼拝をしようとし

ました。彼らは上着を引き裂いて群衆の中に飛び込んで行き、「わたしはあなたたち

と同じ人間です」といってやっとの思いで止めさせた、と。ここでも、使徒たちはな

ぜこの地方の文化や宗教を背景にした生き方を、広い心で受け止めないのか、という

疑問をおこさせます。そしてここでも、生きた神の言葉をゆだねられた「人間」であ

ることの自覚が貫かれていることに気づきます。


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