3月3日
2002年3月3日

「神は何の差別もなさらない」

使徒言行録15:1-21


 キリスト教会の歴史を決定的に方向付けることになったエルサレムの使徒会議のこ

とが記されています。ことの発端は、アンティオキアの教会にユダヤから来た人々が

来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければあなたがたは救われない」と説い

てパウロやバルナバと激しい論争になったことからです。そこでエルサレムの使徒や

長老たちのところに集まって会議を開き、決定が下されたと言うことです。

 このような対立、分裂そしてそれを解決するための会議を聖書はスキャンダルとし

て語っているのではなく、神の言葉が引き起こす事態、福音として持っていることに

注意したいと思います。この出来事は、キリスト者がユダヤ人以外の人々を教会に迎

え入れ、伝道旅行をして異邦の地に福音を伝えるようになり、また、教会が旧約の律

法と神の契約を聖なるものと受け入れる限り、早晩起こってくる問題でした。旧守派

と革新派、ユダヤ人系と異邦人系、どちらも後に引けない人間の救いをめぐる真剣な

戦いがあります。しかし、ここでそれぞれが勝手に永遠の神の御心として自分の確信

する世界にとどまる、というのではなく、一つのキリストの体となるべく共通の理解

を得ようとする働き、そして克服、これが福音として、また神の言葉の事態として語

られているのです。聖霊は歴史の中で働きます。この会議では、パウロやバルナバと

ファリサイ派からキリスト者になったユダヤ人キリスト者が語ったほかに、ペテロと

主の兄弟ヤコブが発言していますが、彼らの発言の仕方に注目すると、自分の主張を

通すためではなく、聖霊の導きを確認し、神のみ旨を求めることに深い注意が払われ

ていることに気づきます。教会の会議は自分の主張と権力を広げるための政治的手続

きではないのです。聖霊の導きが確認される時、騒々しい賛成・反対ではなく沈黙が

支配します。

 ペトロの語ったことは、あのコルネリウスの回心の出来事に立ち会った自分自身の

経験でした。異邦人が福音を聞いて信じたのは律法と割礼を通して福音が語られたか

らではなく、「わたしたちに与えてくださったように、異邦人にも聖霊を与えて彼ら

を受け入れられたことを証明なさった」こと、そこには何の差別もなかったことの確

認です。キリストの恵みが聖霊によって伝えられる時、すべての人間的な条件を圧倒

して、恵みとしています。そこから、「先祖たちもわたしたちも負いきれなかったく

びきをあの弟子たちの首に懸けて神を試みてはならない」という結論に達するのです。

新しい時がここから始まっていることを明瞭に自覚しています。


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