使徒言行録16:16-35
喜びの書簡といわれるフィリピの信徒への手紙によって、その中にちりばめられて いる珠玉のことばによって、深く養われていない人はいないでしょう。この手紙の受 け手であるフィリピの教会の人々の心に、福音はどのように到達したのかを、パウロ とその一行の最初期の伝道のさまによって考えることができます。 二人の対照的な人がいます。まず、占いの霊に取り付かれた女奴隷です。この人は、 その特殊な能力によって、主人たちに多くの利益をもたらせていました。パウロたち を見ると大声で「いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです」と 叫んで付きまとったので、パウロはついにたまりかねて霊に、「出て行け」と命じま す。これはどういうことなのでしょう。命の言葉は驚くべき早さでこの女性の中に到 達しています。「いと高き神」を感じ取りその言葉の内に「救いの道」があると感知 するだけでなく、これを証言し伝道するに至っているのですから。しかしパウロはこ の伝道のことばを許しません。なぜか。その福音の証言と喜びと自由の福音ですが、 その証言者は全人格において証言しているのではありません。ある特殊な霊的な感性 によって語っているだけで、自由をもたらすはずの言葉が解放への道を開くのではな く、不自由なままであるからです。いと高き神への信仰とその証言は、本姓の叫びで はなく不自然な叫びです。したがって、この道は閉ざされているのです。 次は、フィリピの牢獄の看守です。パウロとシラスを捕らえて獄のもっとも奥に厳 重に繋いでいましたが、真夜中に突然の大地震によって獄の土台が揺らぎ、囚人たち が逃げてしまったと思い自害しようとしたところをパウロの一声によって助けられま した。興味深いことに、このように助けられて、この人は、「わたしが救われるため に何をなすべきか」という問いを発しています。これによって家族ともども洗礼を受 けるに至ったというのです。この人には何が起こったのでしょう。看守としての責任 を全うできなかった危機を脱して、ここで救いが終わったのではなくて、ここから命 の言葉に至る道が開かれているのです。それは、彼がここまで守ってきた平和や秩序 が形ばかりのもので、それは一旦地震でも起こればただちに自分を危機に陥れるよう な類のものであること、真の秩序と平和にいたる道は自分には開かれていないことに 気づかされたからでしょう。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも、あな たの家族も救われます」という確信に満ちた宣言は、この空虚な心に確かに届いてい ます。