4月21日
2002年4月21日

「王であるイエス・キリスト」

使徒言行録17:1-15


 フィリピからエグナティオ街道を150kmほどの旅程でマケドニアの第一の町テ

サロニケに着きます。パウロとその一行は、このテサロニケでユダヤ人の会堂に入っ

ていき伝道の活動をしています。ここでも、多くの人が信仰に入れられると共に、ま

た反対者が現れ、群集を扇動してついにこの町から出ていくという、お決まりのパタ

ーンが繰り返されます。ここで注目すべきことは、群集の暴行に巻き込まれたのはパ

ウロやシラスではなく、信じたばかりの兄弟たち、「ヤソンと数人の兄弟たち」であ

ったということです。町の当局者たちの前に引き出されて、「イエスという別の王が

いる」と言うものをかくまったとして暴行を受けているのです。試練に遭って、未熟

な信仰などと言っておれない状況から、かえって確かな信仰者になっていく。テサロ

ニケの信徒への手紙を見ると、ここで形作られた教会は、キリストに結びつくものの

希望と感謝と喜びをあらわすことにおいて、まさにキリスト者の模範です。それと、

この町の伝道の労苦で、特にパウロが言及するのは、「だれにも負担をかけないで夜

昼働きながら神の福音を宣べ伝えた」ということ、キリスト者は怠惰な生活をしない

で勤勉に働く生活をしなければならない、「働きたくない者は、食べてはならない」

という有名なことわざはここにでています。

 しかし、何よりもわたしたちがこの教会から学ばなければならないことは、福音の

伝達と受容の仕方でしょう。パウロは3回の安息日にわたって「聖書を引用して論じ

合い、メシアは必ず苦しみを受け、死者の中から復活することになっていた」ことと、

「このメシアこそわたしたちが伝えているイエスである」と説明し論証したと記され

ています。ここで語られたのは、ただイエスの生涯の出来事や、それを信じた人々の

喜び、奇跡的な救いなどではありません。聖書(旧約)に記されている神の約束と成

就の関係の中で、主イエス・キリストの十字架と復活が語られました。そして、それ

を聞いた人たちは、「それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れた」

のです。テサロニケの次に行ったベレアでも、非常に熱心に「御言葉を受け入れ、そ

の通りかどうか毎日聖書を調べていた」と記されています。このように聖書と取り組

むことによって、イエス・キリストにおいて起こったことの確かな意味を確認して、

更にその奥にあるものへと導かれています。そうでなければ、主の十字架や復活が、

単なる奇跡ではなくわたしたちの復活の命のはじめと理解し、神の約束と成就の関係

の中にわたしたちが入れられていると信じることなどできないでしょう。


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