使徒言行録17:16-33
アテネでのパイルの伝道は、「町の至るところに偶像があるのを見て憤慨した」と いうところからはじまります。ギリシャの文化を代表する町アテネの壮麗な建物やそ の中に示されている洗練されたセンスに深く感嘆し、賛美するのではありません。そ の根底に潜む混沌と闇を見ているからでしょう。このような憤慨、怒りは、他の文化 や宗教に出会う態度としてふさわしいことでしょうか。自分の宗教的な見解から他の 宗教を見るときの偏狭さと独断を排するのでなければ、他の文化を理解できないので はないでしょうか。他方、アテネの人たちは、哲学者も交えて広場でパウロと論じ、 ついにパウロをアレオパゴスの議場まで導くことになりますが、彼らは単に好奇心か ら新しい教えや信仰に興味があるだけで真剣な神への問いに根ざしていません。生き た神への信仰に全身全霊を捧げている伝道者と宗教を好奇心の対象としてしか考えな い人々、この対話が成立しにくい構図の中で、あの有名なパウロの説教が語られてい ます。 アテネの町で見かけた「知られざる神に」と刻印された偶像の話からはじめて、神 は人間によって仕えられなければ存在しないようなものではなく、逆に神によって人 間は造られ、その中で生き、動き、存在することを明らかにして、ついにキリストの 復活にまで語り及ぶと言う壮大なものです。ここで、まず注目したいのは、アテネの 人々の宗教状況に憤慨したパウロが用いている対話の糸口と発展させる筋道です。一 方的にユダヤ人の神の宣伝ではなく、ギリシャ人の中にある神礼拝について自己反省 から始めています。反省のための素材は聖書ではなく、彼らの祭壇と彼らの哲学者が 語った言葉です。理性に訴えて、人間の手で造られ、人間の欲望や恐れ、自己神化の 投影に過ぎない神礼拝の迷いから目を覚まさせ、天と地を創り、その中に満ちている すべてを支配される神、遠く離れている神ではなく近くにいて求めさえすれば見出す ことのできる神を明示します。 しかし、福音はここで終わるのではありません。パウロは、「先にお選びになった 一人の方によってこの世を正しく裁く日をお決めになった」こと、そして、「神はこ の方を死者の中から復活させてすべての人にこのことの確証をお与えになった」こと を語ります。大きく不思議な飛躍をさせるのです。キリストの復活が裁きの日の確証 となる、許しのなかにおかれている裁きが語られるのです。神の愛の迫力に押し迫ら れ、おそれ、悔い改め、全身全霊で従うことになる三位一体の行ける神が明らかにさ れます。