フィリピの信徒への手紙4:1-9
若いフィリピの教会に、母親が子どもに対して教えるように、キリスト者のこの世 での生き方をパウロは教えています。「どんなことでも思い煩うのはやめなさい。何 ごとにつけ感謝を込めて祈りと願いを捧げ、求めているものを神に打ち明けなさい・ ・・。」「すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて愛すべ きこと、すべて名誉なこと、また徳や称賛すべきことがあれば、それを心にとめなさ い・・・。」これらは別々のことがすすめられていますが、そのすすめに伴う約束は、 「神の平和があなたがたを守るでしょう」「平和の神があなたがたと共におられます」 といいます。よく見ると、これはキリスト者がきびしいこの世に生きる場合に、閉ざ された自分だけの世界に生きないで、対話の中で生きるように、神と、世界との対話 の中に平和の神が共にいますことを教えています。 神との対話の中では、何ごとについても思い煩うことなく、「祈り」と「感謝」を 結びつける対話をするようにというのです。フィリピの牢獄に入れられたときのパウ ロとシラスの態度を思い起こします。危機の時、賛美しつつ祈るのは至難のことのよ うに思えます。しかし、すべてを神に委ね、そこから生きていることを確認する心で す。暗闇から神に祈るのではなく、主イエス・キリストにあって神から暗闇を見るこ とに視点を変えるということです。 第2の、すべて真実なこと、称賛に値するものに心をとめるように、ということは、 祖との世界に向かって目を開き、心を開いて、そこで行われていることをよく考える ようにということです。このような勧めがなされる背後には、独善的・排他的な信仰 を教えるものの存在があります。信仰者である故に、世界で行われていることや他の 文化を軽蔑・冷笑・敵対・無関心・無関係の態度で接するべきだという考えに陥る傾 向を持っています。パウロはそのように教える人々を「キリストの十字架に敵対して 歩いているもの」と言っています。何故か、そえは、主イエスの十字架は、神と人と の敵対する状況の中に、神みずから人となり、へりくだって人と同じものとなり、人 の罪を担って、神に従順に従う道を終極まで歩み尽くされて和解を造られた、そのし るしだからです。この世で賞賛されているものをこの世の人と一緒に称賛するのでは ありません。幼子が愛の込められた声によって言葉をおぼえ、自ら語り出すように、 わたしたちもこの信仰者の奥深い声を聞いて育てられなければなりません。