6月2日
2002年6月2日

「信仰と聖霊」

使徒言行録19:1-10


 パウロのエフェソでの伝道は、二年以上にも及び、そこを拠点としてアジア州全体

に伝道の戦線を広げていった幼です。「アジア州に住む者は、ユダヤ人であれギリシ

ヤ人であれ、だれもが主の言葉を聞くことになった」と記されている通りです。また、

パウロはここで牢獄に入れられた可能性があり、いわゆる「獄中書簡」といわれるい

くつかの手紙は、ここで書かれたものでしょう。

 エフェソの伝道のはじめ、洗礼をめぐって議論があったことを伝えています。「信

仰にはいった時、聖霊をうけましたか。」「いいえ、聖霊があるかどうか聞いたこと

がありません。」というような対話から、ついに12名ほどの者が主イエスの名によ

る聖霊を受けることになった、というのです。今、パウロがわたしたちの教会に来て、

一人一人に同じ質問をしたら、わたしたちはどのように答えることができるでしょう。

 パウロはエフェソに来たとき、すでに主イエスのことを知って、主を信じ、共に礼

拝をしている仲間に出会いました。しかし、共に祈り、礼拝し、共に交わりを持つ間

に何か肝心なものが欠けているのに気づいたのでしょう。それが、この問いになって

います。他者と信仰と生活についてこのような感じ方や介入の仕方は人間として傲慢

な、余計なお節介と言うべきものではないでしょうか。いや、キリスト者の信仰は自

己満足の世界ではなく、一つの主を告白する信仰ですから、その肝心の点で一致して

いることが求められます。ここでは、キリストの弟子であることの基準が問題です。

ここで起こったことは、ヨハネのことしか知らなかった弟子たちが聖霊について知る

ようになった、主イエスの名によって洗礼を受けるという所定の儀式を経験した、と

いうだけのことではありません。ヨハネの弟子から主イエスの弟子に変わったのでも、

また、預言や異言を語ることができるようになったという表面的なことでもありませ

ん。主イエス・キリストとの関係のあり方が根本的に変わったということです。人を

介しての知識や自分の中だけで納得している関係から、生きた主イエス・キリストと

の交わりの中で、現実の、現在の関係に変わったということです。聖霊を受けるとい

うことは、このように、主イエス・キリストとの関係を一方的なものから現実の交わ

りの関係に帰ることを意味します。「あなかがたの内なる人を強めて、信仰によって

あなたがたの家にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立

つものとしてくださるように・・・」(エフェソ3:6)。聖霊を求める祈りは、こ

のような祈りです。


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