使徒言行録19:11-22
パウロはエフェソで2年滞在しましたが、ルカはそこで起こった滑稽な出来事を伝 えています。ことの起こりは、「パウロの手を通して神は目覚ましい奇跡を行われ」、 ついにはパウロの身につけていたエプロンやハンカチを病人のところに持っていって 当てると病気が癒されたところからです。パウロの行為は怪しげな呪文を唱えたり、 神々の名を唱えたりして悪魔払いをする人々の関心を引き付けました。イエスの名の 魅力に取り付かれたのです。特に、ユダヤの祭司長スケワの7人の息子と称する悪魔 払いは、パウロのように主イエスの名によって悪魔を追い出そうとしました。ところ が、悪霊は、「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、 一体お前たちは何者だ」といって飛びかかってきて、彼らを散々なめに合わせた、と いうのです。 この出来事は、主イエスの名を信じるものが持つ力はどのようなものかを考えさせ てくれます。キリスト者はキリストの名を負う者です。わたしたちはキリストのもの、 主イエス・キリストは生きるときも、死ぬときも、ただ一つの慰めです。このことを 信じ、また伝え、その力を現すのはどのような仕方によってであるか。ここでは、特 に、癒しをめぐって3つの伝統が交差している中でそのことが問われています。医療 (Medicine)、奇跡(Miracle)、魔術(Magic)、この3つのMです。医者ルカがパ ウロの手によって行われる奇跡と、それに反応する魔術師のことを伝えています。そ れぞれが違った原理で人間の苦難と病に立ち向かいます。魔術は、さまざまな悪は対 立する霊力のバランスの崩れからおこるものだから、ある名前や言葉を投げかけるこ とによってバランスを回復し癒しを獲得するという原理ですし、奇跡は、病や苦難の 背後に神(々)の意志と支配があることを信じ、正しい信仰を回復することによって 癒しにいたるという原理です。パウロの癒しは奇跡として現されていますが、限りな く魔術に近いものです。「物」が癒しを仲介するのですから。しかし、出来事全体が 伝えていることは、「イエスの名」がその人格と言葉、生と死と切り離され魔術的な 記号、呪文のようなものになってはならない、ということです。人格的な交わりに入 るのではなく、ただその名の力と効力だけが取り出され、もうけのために利用される ようなことは、生きた主御自身が、許されないし、悪霊もそのことを知っている、と。 わたしたちは、主の名とどのように向かい合っているでしょうか。