6月23日
2002年6月23日

「市民宗教の光と影」

使徒言行録19:21-40


 パウロのエフェソでの伝道の最期は、「この道についてただならぬ騒動」が起こっ

た、と記されています。エフェソを代表するアルテミス神殿の模型を造っていた銀細

工職人アレキサンドルなる人物が仲間を扇動し、町中の人々をかき立ててキリスト教

弾劾集会をしたのです。「あのパウロは手で造ったものなど神ではないと言って、エ

フェソばかりでなくアジア州のほとんどの全領域で多くの人を説きつけたぶらかして

いる」というデメテリオの観察は、あながち見当はずれとはいえません。主イエス・

キリストによって生きた神を伝えるパウロの伝道の広がりとその真理がもたらす迫力

がデメテリオとその仲間たちを震撼させている様を伺うことが出来ます。彼の不安は、

神殿の銀細工模型を造っているわれわれの仕事の評判が悪くなる、アルテミス神殿が

ないがしろにされる、アルテミス神のご威光が損なわれる、という3点ですが、この

順序が示しているように、中心は神への恐れと信頼ではなく、生活の糧である神殿に

固執しているだけのことです。しかし、このような世俗的な力と結びついた信仰を持

っている人々と「主の道」と衝突している事態、これはわたしたちにとって、関係な

くはない構図です。エフェソのアルテミス神の礼拝のように、エフェソの市民宗教と

なって、その町に住む人の経済や政治、教育や道徳全般を支配しているような場合、

これとどのように関わっていくことができるのか。これは、やがて立場が逆転して、

キリスト教が世界の国々の市民宗教として国民の文化を支配するようなことになりま

すが、自分たちの生活のために自分たちの伝統的な宗教を守ると言うだけの信仰はキ

リスト者の中からも起こってくるでしょう。したがって、デメテリオを、真の神が伝

えられているにもかかわらず偶像礼拝にしがみついている愚かな低劣な人物と蔑むだ

けではことは済みません。

 この出来事を通して聖書がわたしたちに教えていることは、これを容易ならざる事

態として真剣に取り組むべきこととしていることです。興味深いことに、この争乱を

秩序ある社会へと回復するのはアルテミス神の前で生きることを学んだエフェソの市

民社会そのもの、ということです。キリスト者をリンチに掛けて殺そうとした激嵩す

る人々の騒乱を鎮めたのは、パウロではなく、エフェソの書記役だったのです。天地

を造られた神の支配は、そこにも及んでいるということです。わたしたちの伝道は、

そのような世界の中で展開されます。


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