使徒言行録20:1-12
エフェソでの働きを終えて、パウロと仲間の伝道者たちはマケドニア、ギリシャの 教会を回って励まし、エルサレムに行く大きな旅にでます。教会は一つの場所で固定 して、そこで根を生やし福音を宣べ伝えキリストの愛を証しするだけでなく、旅をし ます。パウロはフィリピやコリント、エフェソなどの教会を代表する人々と共に、エ ルサレムの貧しい人たちを援助する献金を携えています。新しい教会と古い教会を愛 によって結びつける旅です。このような旅によって、教会が教会としての姿を表して います。 その旅の途中、トロアスで、週のはじめの日に「パンをさくために集まっている」 とき、パウロの話が長くなって真夜中になってしまったので、窓際に座っていた若者 が眠りこけて三階から下に堕ちて死んでしまったという事故が起こりました。トロア スの教会の青年エウテコのこの話は、笑いたくなるような笑えないような、しかし妙 なリアリティーのある話です。大伝道者パウロの説教を聞くという千載一遇のチャン スに眠りこける青年、主イエスの死からのよみがえりを記念する週のはじめの日、主 を信じるものはもはや罪のために死ぬものはいない、永遠の命にあずかっていること を告げる礼拝の日に、まさにその礼拝の中で死ぬというアンバランス、エウテコとい う名前の意味は、「幸運な人(幸雄君)」ですが、幸運な人であるはずのエウテコの、 この不運、このようなアンバランスを並べると口をゆがめて笑いたくなるでしょう。 そして、キリスト者がこの世に生きている実情、教会がこの歴史において現して来た 姿の一端を見る思いがして、その笑いは凍り付くでしょう。信仰の共同体の祝福と善 意は、このような出来事によって一挙に硬直し、永遠の命にあずかる交わりが悲しみ の共同体、虚無を分かち合う共同体に変質します。 パウロがここでとった態度、語った言葉はきわめてオーソドックスなものです。預 言者エリアや主イエスの若者を立ち上がらせたことに倣うものです。若者のうえにか がみこみ、「騒いではいけない。命が彼のなかにある」と言ったのです。この死の事 実を超えて、新しい事態が始まっていることを、信仰者パウロは見ています。目に見 えているものではなく、まだ見えないけれども彼のなかに始まっている新しい事実を 見る目、上からの働きを確信している信仰、これが、硬直した事態を本当の笑いの事 態に変えています。トロアスの人々は「生き返った青年を連れて帰り、大いに慰めら れた」と記されいます。