使徒言行録20:25-28
パウロがエフェソの教会の長老たちに語った決別の説教のなかで、「どうかあなた がた自身と群れの全体に気を配ってください。聖霊は神が御子の血によって御自分の ものとなさった神の教会の世話をさせるためにあなたがたを群れの監督者に任命なさ ったのです」と語っているところ、この言葉によって、代々の教会は自らが何である か、また教会と教会を治める者の関係がどのようなものであるかの最も本質的な支持 をくみ取って来ました。また、ここに深い慰めがあるのを聞き取ってきました。 この言葉によってまず気づかされるのは、教会とその指導者の関係が羊と羊飼いの 関係にたとえられている不思議です。聖書には羊や羊飼いのイメージがたくさん出て いますが、それらは多くは神とイスラエルの民との関係、あるいは主イエスと教会の 関係をあらわすものです。「主は羊飼い、わたしは何も欠けることがない・・・」と いう詩23篇のことばやエゼキエル書の小羊をかいなに抱いて連れ帰るイメージ、あ るいは、主イエスの「わたしはよい羊飼い。よい羊飼いは羊のために命を捨てる」な どのことばをすぐに思い出すことができるでしょう。またひるがえって、主イエスは 「ほふり場に引かれてゆく小羊」として描かれているイメージも、強烈にわたしたち の心に刻印されています。羊飼いと羊のイメージは父である神と御子イエス・キリス トとわたしたちの最も親密な関係、命の絆を想起させます。その関係が、ここでは、 「あなたがた」すなわち、長老たちと、「群れ」すなわち教会との関係に拡げられて います。長老たちは父である神に対して、また主イエスに対して羊ではないのか、小 羊の血によってあがなわれる必要のないものなのか、そうではありません。長老たち も迷える羊であり、また神の小羊であるキリストの血によって罪をゆるされるもので なければなりません。にもかかわらず、「聖霊は」あなたがたを「牧者」としてたて 群れを司牧するもの(監督者)として立てたというのです。なんと僭越なこと、なん と畏れ多いことでしょう。ということは、教会において羊と羊飼いの関係は、本来そ の名称においても、また内実においても、神と教会をあらわすもので、長老は本当の 牧者の代理のもの、一時的なもの、仮のもの、仲介的なものであるにすぎません。真 の関係を投影し、想起させ、導くものです。導くべき羊は、自分の所有になる得たい の知れない生き物、あるいは一個の財産ではなく、「神の教会」であり、神が「御子 の血によって御自分の所有とされた」ものなのです。