テモテへの手紙U2章1−13
「キリスト・イエスの立派な兵士として、わたしと共に苦しみを忍びなさい」と語 られます。キリストを信じる信仰は喜びと解放への福音です。しかし、この世にあ っては、それはまた苦しみを共にになうように促す「聖なる招き」でもあります。 わたしたちは生きているだけでも苦しみが多いのに、苦しみの上にさらに苦しみを 加えるように招かれているのでしょうか。 「苦しみを共にして欲しい」という促しは、その招きに従って生きるとき、どの ような励ましと、どのような支えとを受けることができるか、だれと一緒に苦しみ に耐えるかが明らかになると、あてのない無駄な戦いをするのではなく、苦しみが 苦しみに終わらないものになります。それについて、「イエス・キリストのことを 思い起こしなさい。・・・ダビデの子孫として生まれ、死人の中から復活された」 という福音において語りつたえられる根源的出来事が明らかにされます。そして、 この福音の故にパウロは牢獄に捉えられ、鎖につながれていることを引き合いに出 しながら、しかし「神のことばはつながれていない」と言います。人を捕らえ、獄 に閉じ込め、鎖につなごうとすればするほど、ますますその自由を獲得して語り伝 えられることば、それがイエス・キリストの福音です。そのことばを確実に次の世 代に語り伝えるために「苦しみを共にして欲しい」というのです。 現代の若い人たちの間で「きれる」とか「むかつく」ということばがよく使われ ます。ある種の身体的な感覚をよく捉えているといえます。しかし、きれるときに つなぐことばを獲得しているでしょうか。このような感覚を適切に言い表すことば を獲得したとき、同時にそれを超える、それを統御することばも獲得していないと き、きれることを容認し、きれることを楽しみを、きれることの奴隷になることも 起こってくるでしょう。 ここではつながれることのないことばが問題です。神のことばはつながれること がないといいます。囚われ、鎖につながれ、肉体は滅びても、つながれ、押え込ま れてしまうことのない神のことばが問題です。このようなことばを持っているとき、 このようなことばのために生きようとしているとき、少々の屈辱にあっても、きれ たなどといって簡単に感情のままに行動することをゆるさない強靭さを持つことに なるでしょう。 不思議なことに、この言葉を次の世代に確実に伝え、証しするために立ち上がり、 苦しみを共にした仲間は、これまで絶えてしまうことはありませんでした。秋山牧師の説教集インデックスへ戻る