ルカによる福音書6章20−26
主イエス・キリストの活動の様子をよく見ると、いくつかの特徴があります。そ の一つは巡回されるということです。町々村々に行かれた、〜の会堂に入って行か れたという表現が数多く出てきます。また、イエスのおられる所にはどこでも、病 人や悪霊につかれた人で一杯です。罪人や徴税人たちもイエスに招かれて従ってい くようになったと書かれています。このような人たちは、今も、またおそらくイエ スの時代も、普通の生活をしている人たちには見えない人の群だったと思います。 罪人、徴税人、遊女は社会の暗部、また、不安や病気を抱えている人たちは人々か ら隅へ押しやられ、自らも心を閉ざしがちです。主イエスはその一人一人の所まで 出かけていって、声をかけられ、手を置かれるのです。 このような主イエスの活動のただ中でこの人たちが、「貧しい人は幸いである。 神の国はあなたがたのものである。今、飢えている人は幸いである。あなたがたは 満たされる。今、泣いている人は幸いである。あなたがたは笑うようになる」とい うことばを聞いたのです。深い慰めを含んだ優しさと、また激しいもの、今、泣い ている人や飢えている人に激しく心を動かされている主イエスの心を感じるのは易 いことです。マタイによる福音書では「心の貧しい人は幸いである」といっている のに対し、ルカによる福音書ではもっと直截に、「貧しい人はさいわいだ」といい ますし、またマタイにはない「〜は不幸だ」ということばがありますのでルカの言 葉の方がはるかに激しいものになっています。特にルカでは貧しい人、泣いている 人、飢えた人に、その人たちは幸いというのではなく、「あなたがたは幸いだ」と いっていることに心惹かれます。貧しさや悲しみや飢えを客観化して捉えるほどに 整理できない「わたしたち」に、主は「あなたがた」と呼びかけ、「さいわいだ」 と語ってくださるのです。また、「今、泣いている人、今、飢えている人」と「今」 が強調されているのも意味があります。無限に続くと思われる、泣くことも、飢え ることも、「今」という時に限りをつけてくださっているのですから。 わたしたちの罪のために十字架を背負うほどに真実でありたもう主イエスが、こ のように、いつも、わたしたちに語りかけてくださる。貧しさや飢えや悲しみ、非 難されること迫害されることを、別の時に変えてくださるということをおもえば、 喜んで、飢えや貧しさを引き受けて生きていく力が湧いてきます。秋山牧師の説教集インデックスへ戻る