使徒言行録22:1-16
パウロの回心の体験、ダマスコ途上で主の光と語りかけによって、キリスト者を迫 害する者からキリストの福音を伝道するものに変わった出来事について、ここではエ ルサレムの神殿でユダヤ人の扇動によって捕らえられ、殺されそうになったところで、 ユダヤの民衆にへブル語で、どうして異邦人の伝道者になったかを弁明しています。 回心の体験は何度聞いても新しい感動と示唆を与えられます。 ダマスコ途上でパウロをめぐり照らした光、それは一体何だったのか、真昼の太陽 の最も明るいときに、それよりももっと強い力でパウロをうち倒した光、パウロを伝 道者に変えた光、それは、物理的な光りというより、人格的な光りであって、パウロ に呼びかける方の声の放つ光であったでしょう。パウロのキリストとの出会いは闇の 中で見出した一条の光りの体験ではありません。暖かな熱と解放の自由へと誘う光で もありません。むしろ、人間的な確信と自身に満ちた人生の真昼間にいるパウロを一 瞬の光りによって闇に陥れ、盲目にする光りでした。それは、ナザレのイエス、神の 子でありながら人となり、十字架にかかり、人々に捨てられ、人々の罪を背負って死 に、そして死人の中から復活された方の人格的な権威、威力の放つ光です。その光は パウロの神への熱心、人々への奉仕のつくり出した内なる光りを一瞬のうちに闇に変 えてしまうようなもの、その底の浅さ、狭量さをあらわにするものでした。およそ、 確信を持ってこの世界を生き、人々の指導者となり、活動している人が回心をすると いうことは、転向、変節を意味し、それは恥ずかしいこと、軽薄なこと、人格の弱さ を露呈するものです。そのようなことを露呈する光りがダマスコ途上のパウロを襲っ たということです。主イエス・キリストの光りは、まさにそのような光りとして、わ たしたちの人生のただ中に介入されます。だれがこの光りによって自分の恥ずかしさ、 狭さ、底の浅さを露呈されないものがあるでしょう。 ここでは、ダマスコのアナニアという人物がパウロのために果たした役割のことが 興味深く記されています。枯葉、パウロの目を開くこと、その光りはわたしたちの先 祖の神があなたを選んで「あの正しい方」に出会わせてくださったこと、その方のこ とを証しする使命があることを伝えて、洗礼を授けています。あの強烈な光りの招待 を明らかにし、その人格と結びつけ、洗礼を授けています教会のなすべきことの内容 を正確に表しているのです。