9月15日
2002年9月15日

「復活の望みに生きる者」

使徒言行録22:30-23:11


 エルサレムで捕らえられたパウロがユダヤの最高法院で審問を受ける場面。主イエ

スを十字架にかけるべくポンテオ・ピラトに引き渡したところ、ペトロやヨハネが引

き出され、またステファノを殉教の死へと追いやった議会にパウロも多々されていま

す。しかし、パウロの場合はこれまでのキリスト者たちとは全く違う状況であること

に気づきます。パウロはユダヤ人として審判されているのではなく、ローマ市民権を

持つものとして、ローマの千人隊長の「なぜパウロがユダヤ人たちから訴えられてい

るのか確かなことを知りたい」という意志によって、議会の前に立っています。そし

て、ここでパウロの発言や振る舞いは、一貫してユダヤ人に向かってではなく、千人

隊長を意識してのものです。「わたしは今日に至るまであくまでも良心に従って神の

前で生きてきました。」「あなたは律法に従ってわたしを裁くためにそこに座ってい

ながら、律法に背いてわたしを打てと命令するのですか・・・。」大祭司の権威では

なく律法の権威の優位を知っているのです。パウロは語る復活の希望も、伝統的な議

会の対立軸をえぐり出すための戦術でした。パウロはユダヤの律法のもとにあるもの

としての生き方とローマの法のもとで生きる生き方と二つの生き方を知っており、明

らかにそれを使い分けています。ここに独特のパウロの生き方、法感覚、広い世界の

中で生きる信仰者のあり方を見ることができます。ここにはわたしたちが想像してい

るような、敬虔な、何事にも沈黙して耐えるキリスト者像は描かれていません。なぜ

パウロはこのような使い分けをするのか、苦し紛れの窮余の策か。そうではなく、こ

こでパウロは天地を造られた父である神を、主イエス・キリストのあがないを通して

知ることによって、新しく開かれた法感覚によって行動しているのではないでしょう

か。神の民イスラエルだけ律法が与えられ、その秩序を知っているのではない。神は

異邦人の中に混乱と無秩序が支配されるままにしておかれるのではなく、そこにも秩

序と正しい権威が確立することを望んでおられ、そのためにすでに働いておられるこ

とを知っているのです。神のあわれみはそこにまで広がっているという確信が、パウ

ロを異邦人に福音をのべつたえる力と勇気を与えました。また、ローマの市民権を持

つこと、そしてそれを行使することも習熟しているのです。自分たちの中だけに正義

と平和があるとみなす枠から解放されている、キリストによって新しくされた物の敬

虔のモデルです。


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