9月29日
2002年9月29日

「希望に対する告発」

使徒言行録24:1-16


 エルサレムで取られられたパウロがカエサリアで総督フェリクスの前で裁判を受け

るという場面、エルサレムから下ってきた大祭司や長老たちとその弁護人テルティロ

による告発。パウロによる弁明と続きます。キリスト教の信仰がローマの裁判機構の

なかでどのように裁かれるか、またユダヤ人の民族的な宗教文化がローマ的なコンテ

クストの中でどのような論理性を持っているか、ユダヤ教の側とパウロの側と両方か

らの主張が展開されています。テルティロの論告はフェリクスに対する追従に続いて、

「この男は疫病のような人間で、世界中のユダヤ人に騒動を起こし、ナザレ人の分派

の首謀者、神殿を汚す者」との球団ですが、はっきりとした根拠のないものとしてた

だちにパウロに反論されてしまいます。ローマの法の下でパウロの信仰と行動を裁く

ことは困難であることを露呈しているのです。ユダヤ人の宗教の問題を広いコンテク

ストにおいてどのように説得性をもって理解させるかの難問を解きあぐねている姿で

す。

 パウロが弁明している内容は、テルティロの告発に反論し、論駁しているだけでな

く、自分の歩みがローマのコンテクストの中で何かをわかるように語っていることに

注意したいと思います。ナザレの分派と呼ばれる「道」に従って歩んでいる者である

こと、先祖の神を礼拝し、律法と預言者に記されていることを信じ、復活の希望を持

っていることを明らかにしています。こういうわけで、「神に対しても人に対しても

責められるところのない良心をたえず保つように努めています」と。ここで自分の歩

みは「良心」にかかわる歩みであることを明らかにし、ローマ人にもなじみのあるこ

とばを使っています。自分は何をやっても罪を負うことはないと豪語していた総督フ

ェリクスも、良心の何たるかは知っています。それを恥じるところのない生活をしな

ければローマの社会では受け入れられないということも。両親にかかわる問題として、

「正しいものも正しくないものもやがて復活するという希望を、神に対していだいて

いる」、これが、パウロがローマ人の裁判のコンテクストの中で語る福音の突破口で

す。復活が希望であるというのです。ユダヤの伝統的な信仰としてではなく、良心の

問題として、復活の希望を語るのです。一人一人の生の向こうに必ず来る死、そして、

その向こうに正しいものにも正しくないものにも復活があるとしたら、それは希望で

はなく、不安と恐れでもあるはずです。一切を水に流すように死に逃げ込むことはで

きないからです。そこで復活がどうして希望になりうるのか、その問いを引き起こさ

ずにはおきません。従って、ここから単に復活という空想的観念を語るのではなく、

主イエス・キリストの復活という事実に即して復活の希望が語られなければなりませ

ん。十字架において罪を代わって負ってくださった方の復活についてです。赦しと愛

に包まれた復活の希望です。


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