10月27日
2002年10月27日

「皇帝上訴」

使徒言行録25:1-12


 ここではパウロが、ユダヤ人の好意を得ようとしてパウロをエルサレムで裁判にか

けようとした総督フェストに、「わたしは皇帝に上訴します」と言ってローマの市民

権を持つものとしての権利を行使します。ローマの軍人出身の総督フェストのあいま

いな法感覚はユダヤ人にしてローマの市民権を持つパウロの正確な正義の感覚によっ

て正されることになります。こうしてパウロはまことに剣の刃の上を渡るような危険

な事態を乗り切って、不思議なことに、先に夢の中で主が語られたとおりに、「勇気

を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたようにローマでも証ししなけれ

ばならない」ということが成就することになったのです。

 しかし、これがなぜ聖書の物語なのでしょう。ローマ市民権の威力とその法体系、

カエサルの権威の大きさが明示されているのは確かですが、これがどうして使徒パウ

ロ、キリスト者の救済の物語なのでしょう。パウロは殉教の死を遂げたヤコブやステ

ファノのようにただ主イエスを仰いで死に赴くのではありません。特権的な権利を持

った者として、それを雄弁闊達に用いて虎口を脱するのです。皇帝に上訴するという

手段に訴えたパウロは頼るべきでないものを頼って不信仰な決段をしたのでしょうか。

パウロにとってローマの市民権は何を意味するのでしょう。キリストに代わる命綱?

誇りと特権?糞土のごときもの?パウロはフィリピの手紙の中で、かつて自分にとっ

て誇りであったものをならべて、それらはキリストを知る知識の絶大な価値のゆえに

損と思うようになったと語っていますが、パウロの誇りのリストの中にはローマの市

民権は入っていません。むしろかつて熱心な点ではファリサイ人の彼にとって、それ

は恥ずかしいものであったのではないでしょうか。しかし、和解の主であるキリスト

を知るようになって、新しい光の中でそのことを受け止め直したのではないでしょう

か。パウロはフェストに対して、自分はユダヤの律法、神殿、そして皇帝に対しても

何も罪を犯していないと主張しています。この三つが並列的に並んでいることに驚か

されます。彼にとっては神聖な律法も世俗の支配者も同じように神に立てられた秩序

をもたらすためのものなのです。ユダヤ人だけに通用する閉ざされた法の世界の中に

いません。ローマの法も皇帝もそこに神の意思が働いて権威を与えられていることを

知るゆえに、その法の体系をよく学んで、それを使いこなしているのです。このよう

な生き方は世俗的な生き方、ご都合主義的な生き方といえるでしょうか。いな。キリ

ストの福音に照らされた者の新しい敬虔のありかたを示しているのではないでしょう

か。ここではもはや、こちらの法の世界だけに正義を認め、あちらの世界にはあくが

支配しているというような閉ざされたせかいではなく、こちらにもあちらにも働いて

いる主イエスによって啓示された神のもとにある世界が広がっています。


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