11月3日
2002年11月3日

「無罪の罪状のために」

使徒言行録25:13-27


「翌日、アグリッパとベルニケが盛装して到着し、千人隊長たちや町のおもだった人

々と共に謁見室に入ると、フェストゥスの命令でパウロが引き出された」

 主イエスの十字架の死と復活を告げる福音が、今どのような場に立たされているか、

その不思議な光景をわたしたちは見ています。カイサレアのローマ総督フェストゥス

の謁見室、そこに集まっているユダヤの王アグリッパとその妻ベルニケ、実はこの二

人は兄妹でもあるのです。そして千人隊長、ユダヤ人の主だった者たち。彼らがそれ

ぞれどのような人格と素行の者であれ、また全身全霊を傾けて福音を聞くような人々

ではなかったといえ、とにかく、このような当時のユダヤの政治状況の縮図を示すよ

うな人々がパウロを囲み、パウロの語る福音を聞き、そして、何らかの決断をその福

音に対して自己の責任においてしなければならないという状況がつくり出されている

のです。パウロがローマの市民権をもつとものとして自分に対する訴えの裁判をロー

マ皇帝に上訴すると言ったことによって、福音が世界に広がってゆく独特の道が今広

がっています。それに、更に不思議なことに、この謁見室で開かれる法廷は、その裁

判官であるローマ総督フェストゥスの「死罪に相当するようなことは何もしていない

ということがわたしには分かっています」という判断のもとに、パウロの「罪状書き」

を作成するために開かれているのです。しかも、無罪の罪状書きによってパウロは釈

放されるのではなく、ローマに送致されるのです。ガリラヤ湖の片隅で貧しい民衆の

間に語られはじめた神の国の福音、エルサレムの神殿や最高法院でユダヤ人の律法と

習慣をめぐって議論された復活の使信、アテネやコリントなどのユダヤ人の会堂や広

場で語られた福音は、いまここで独特の政治的な問題として取り上げられ、それぞれ

の責任において決断されて、ついに使徒パウロをローマにまで運ぶという事態になっ

ています。それぞれの人間が自分の決断においてしていることですが、その全体を見

ていると、まさに神の摂理としかいいようのない、はっきりとした道がここにあるの

を見ることができます。

 フェストゥスがパウロの語る福音をどう見ているのか、も興味深いことです。それ

を「死んでしまったイエスとかいう者のこと」、「このイエスは生きている、とパウ

ロは主張する」彼ら自身の宗教といっています。「宗教」と訳された言葉は「迷信」

と訳した方がそのニュアンスをよく伝えています。その観察は平均的なローマ人の福

音に対する見方をよく示しているでしょう。「迷信」と見たこのイエスの生きた働き

は、フェストゥスの予想を超えて、今に至るまでわたしたちを結び付ける現実的な力、

存在としてあります。復活の主は、フェストゥスが永遠とみたローマ帝国の命運をは

るかに超えて、時代を超えて今も、ここにわたしたちを招き、一つに結び合わせてい

ます。今生きている人と人とを、そして、わたしたちと招かれた人々とを・・・。


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