11月10日
2002年11月10日

「わたしはあなたが迫害しているイエスである」

使徒言行録26:1-18


 カエサリアで総督フェストゥスやアグリッパ王、その他町の主立った人々の前でパ

ウロの弁論が始まります。このような弁明の中で、イスラエルの希望について語り、

それが主イエス・キリストの復活によって実現したことを明らかにしています。福音

の伝道の務めを果たしています。

 この弁明で面白いところは、パウロが自分自身の生い立ちについて、ファリサイ派

の一員であったことなどを語りながら、突然、王に向かって問いかけ、「神が死者を

復活させてくださるということをあなたはどうして信じることができないと考えるの

ですか」と言っているところです。法廷の席で自分の命を救うために弁明している者

が突然裁判官の信仰を問いただすという滑稽な場面、この問いにはアグリッパは大い

に戸惑ったに違いありません。しかも、アグリッパ王は復活を信じないサドカイ派、

パウロは復活を信じるファリサイ派と言うことであれば、ユダヤの議会で伝統的に対

立している議論について公開討論の場に引き出されるような具合です。ところが、こ

のように相手に切っ先を突きつけて、議論をすると思いきや、さっと論調を変えて、

「実は、わたし自身もあのナザレのイエスの名を大いに反対すべきだと考えていまし

た」と、主イエスの復活を伝えるキリスト者を迫害していたそのさなかに復活の主に

出会った話へと展開してゆくのです。自分の話の中に相手を引き入れてゆく見事なレ

トリックというべきでしょう。しかし、パウロが経験した復活した主との出会いのリ

アリティーとはまさにこのようなことであったでしょう。ファリサイ派パウロは死者

の復活という観念について強い確信がありました。人間の希望の究極の形としての復

活の観念は、それが非現実的であればあるほど猛烈な飛躍と理性への暴力的な抑圧が

あるはずです。他の信仰のあり方を赦さないような偏狭さと強さが生じます。しかし

パウロが出会った復活者イエスは、一個の人格者としてパウロに呼びかけ、御自身の

計画を担うものへと召し出される方として出会われます。生きて、圧倒的な権威を持

って自分に迫ってくる人格として出会わされるのです。復活の信仰とは、まさにこの

ようなことです。それは復活という観念ではなく、生きている主イエスの呼びかけと

して出会わされます。今わたしが呼ばれているのはどこかを考える時リアルになって

来るようなことです。

 パウロの回心の経験は、無神論者が神の存在を信じるようになったのではありませ

ん。放蕩無頼の人間が他者を思い遣る人に改心したのでもありません。そうではなく、

旧約の預言者の召命と同じく、神の計画のために召し出し派遣する強い意志との遭遇

の経験です。「彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、

こうして彼らがわたしへの信仰によって罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に

恵の分け前にあずかるようになるため」とその計画が明らかにされています。復活の

主は、わたしたちにもそのように呼びかけ、わたしたちはそのために召されています。


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