11月24日
2002年11月24日

「ローマへの船出」

使徒言行録27:1-12


 いよいよ使徒言行録の最後の部分、囚人パウロがローマの近衛の百人隊長ユリウス

に護送されてローマに船で行くところになります。使徒言行録は全体が旅の文学の要

素をもっており、これまでも地中海の東側一体を広い範囲でわたしたちもパウロと一

緒に旅をしてきました。その最後も旅で終わります。ここから全体の文体が「わたし

たち」を主語にしたものに変わります。パウロに同伴したテサロニケのアリスタルコ

だけでなく、使徒言行録の記者ルカもローマへの船旅の同伴者として、そのたびの目

撃証人としてその様子を伝えてくれますから、生き生きとした記述によって、わたし

たちの世界とは遠く隔たった地中海の地方、しかも2000年も昔の旅の話が、自分

もその旅に加わったように感じることができます。思うに、このような旅の記録は福

音の伝道や教会の設立の内容とは関係のない、いわば余分な記事です。地中海の航路

や風の様子など、別にそのようなことを知らなくても主イエス・キリストの福音を聞く

ことはできます。使徒パウロの伝道者としての生涯がどのような終わりを遂げたか、

ーマに行ってカエサルの前でどのような証言をしたのかを伝えるほうが大事なことの

ように思います。しかし、わたしたちはこの使徒言行録の旅の記事によって、普通で

は興味の湧くことのない地中海の小さな島々の名前を知り、「パウロの足跡をたどる

旅」などと称して今に至るまで世界中の人が不便な旅をしたりしています。この無駄

と思える旅の中に出会いがあり、事件があり、物語るべきものがあって、そこで主が

ともにおられることを経験する、永遠への通路が開かれているのです。無駄と思える

もの、途上にあるもの、間にある家庭を軽んじないようにすることは、使徒言行録が

わたしたちに教える大事なことです。「神は細部に宿る」からです。

 パウロのローマへの旅はカエサリアから出てキプロス島の陰を航行し、キリキアと

パンフリアの沖を過ぎてミラまで行き、そこでアレクサンドリアの船に乗り換えてク

レタ島に向かい、そこの港を出たところで遭難することになります。アレクサンドリ

アからローマへの穀物運搬船は逆風を間ぎりながらの帆船の公開、しかも「断食日を

過ぎていたので航海はもう危険であった」という季節の旅はエーゲ海のコバルトブル

ーを楽しむというものではなっかたでしょう。旅をする人は、特に古代の旅は自然に

振り回される旅です。また自然の中で自然と向き合うときです。自然の中に放り出さ

れることによって、自分を知り自然の中に生きることを学び、そして「超自然」にふ

れるのです。キリスト者は地上の旅人・寄留者として生きているものであることを聖

書は教えていますが、まさにその地上の旅の中でこのようなことを学びます。また旅

人はいつも目的地、帰ってゆくところをいつも意識しています。どこに帰ってゆくか

を知らない旅人は放浪者です。どの場所でも、どの時でも旅の終わりから今の位置を

確認し数えています。


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