12月1日
2002年12月1日

「難破船の乗員として」

使徒言行録27:13-44


 パウロのローマに向かう船はクレタ島の港を出るとすぐユーラキロンという島から

吹いてくる暴風によって14日間にも及ぶ漂流、そして、ついに難破し海に投げ出さ

れますが、「全員が無事に上陸した」というところまで、今日の旅はそのような旅の

ところです。わたしたちの多くは海で遭難した経験はないでしょうが、キリスト者の

人生が旅であり、思いもかけない出来事に翻弄され揺れ動く経験をしたこととパウロ

の旅を重ね合わせれば、この遭難の記事も「わたしたち」の経験の中でよみがえって

くるでしょう。

 「幾日間もの間、太陽も星も見えず、暴風が激しく吹きすさぶので、ついに助かる

望みは全く消え失せた。」この船にパウロも乗り合わせています。キリストを信じ、

神の福音を伝える者に特別に安全な船と天候が用意されているわけではありません。

そして、この船は旧約のヨナ物語のように物語の中の嵐ではなく現実の嵐の中で暗闇

の波間を漂っています。また、この船の中にはガリラヤ湖の弟子たちのように眠って

いる主イエスが一緒に乗っているのでもありません。もしそうなら、すぐに揺り起こ

して嵐と波を叱って静めてくださるでしょうが、現実のわたしたちと同じく、この船

の中に主イエスの姿を見ることはできません。しかし、興味深いことに、このような

時になって船に乗り合わせた人々の目と耳は、パウロの語ること、パウロの祈りに向

かって開かれています。パウロの口から「恐れるな。主は共にいます」の語りかけを

聞こうとしています。パウロとて、ここはもう神の助けを求めて祈るしかない時です。

望みなき事態、暗黒の淵に立つ時、どのように祈ったのか。それは闇雲に虚空に向か

って叫んだのではないでしょう。そのような時恐れと不安の中で、主の約束の言葉を

思い返し、そのみ言葉を確認していること、そして自分自身に対する約束は共にいる

人たちの安全をも巻き込む性質のものであることを確信していること、このような確

認作業をしているのです。このことを学ぶことは、わたしたちにとっても大切なこと

です。危機にあたって、立ち止まってみ言葉によって主がわたしたちに約束してくだ

さっていることを一つ一つ確認し、その約束の及ぶ範囲、その深さと広がりを考えな

がら希望を持って歩むのです。そうでなければ祈りが対話になりません。

 しかし、嵐の中を行く船の中でパウロの幻は何の根拠もない慰めにしか過ぎません。

「わたしは神を信じています。わたしに告げられたことはその通りになります」とい

くら叫んでも度を失っている人々の心には響かない言葉のようです。それどころか、

船乗りも兵士たちも我先に自分だけが助かろうとするエゴの塊の世界が現出されます。

その仲でパウロがみんなの前でしていること。パンをさいて食事をしみんなにも勧め

ていることです。キリスト教の礼拝は、まさにこのような形で嵐の中を行く世界の中

で、主の食卓を囲んでそこにみんなを招き、希望のありかを示し続けてきました。


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