12月22日
2002年12月22日

「神は御子によって語られる」

ヘブライ人への手紙1:1-12


 クリスマスの時、わたしたちの目はあのベツレヘムの馬小屋、飼い葉おけの中に寝

かされている幼子、母マリアの腕の中に安らかに眠っている主イエスに注がれ、心に

平安を、また貧しい幼子のために何かをしなければという思いにかられます。ところ

が、ヘブライ人への手紙のプロローグは、このイエスの中に全く別のものを見ていま

す。それも、ただその幼子がこれからたどるであろう全生涯、ガリラヤでの宣教活動

やエルサレムでの十字架による処刑、そして復活にいたる歩みだけでなく、「万物の

相続者」、「世界の創造者」であって「神の栄光を反映する神の御子」「神の本質の

完全な現れ」と見るという驚くべき視点を示しています。世界のはじめと終わりはこ

の神の御子主イエス・キリストによって決定されているというのです。これは、マリ

アを母とし、ベツレヘムで生まれたイエスという歴史的な存在でありながら、歴史を

超えて、歴史をつくり出すお方であることに思い至っているところからくる讃美と信

仰の告白です。主イエスのみ顔を仰ぎ注視する時、わたしたちは人の子の優しさを見

るだけでなく、神の子であるとの認識と告白に導かれることを確認することができま

す。一人の人間にははじめがあり終わりがあります。その枠の中でさまざまな出来事

と出会いがあり、それら自体は流れ去ってゆくものです。わたしたちはまさに「百代

の過客」としてこの世を生きています。しかしその流れ全体を導いているもの、出来

事や出会いの中で問い続けているものは一人の人間の存在を超えています。一人の存

在を超え、一人の歴史を超えてわたしたちに一貫して語りかけ、問い続けるものの本

質は何か、「神は、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました」

聖書はそのことを大胆に、確信を持ってわたしたちに証しています。

 この言葉をはじめに聞いた人々は、この世での迫害や困難のために信仰の戦いの中

で難破しそうになっていたキリスト者たちでした。気力を失い、疲れ、しっかりと自

分の足で立てなくなっていた人たち、現実の労苦に意気阻喪しています。キリストの

御顔が見えなくなっているのです。「萎えた手と弱くなっている足をまっすぐにしな

さい」という励ましが必要です。この人たちが背筋を伸ばしてまっすぐに歩くことが

できるために何が必要か、それは自分のはじめと終わりがキリストのうちにあること

を確かめる以外にはありません。しかも、それは果てしのない自問自答ではなく、神

は語られる、「かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くの仕方で先祖

たちに語られたが、この終わりの時代には御子によってわたしたちに語られました」

という、確かな対話の相手と、そして対話の内容が示されているのです。「主よ、来

てください」というアドヴェントの祈り、「主は来られた」というクリスマスの歓呼

の叫びは、その生涯を通して語られる主イエスの言葉を聞くことによってわたしたち

の心に沸き起こってきます。


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