12月29日
2002年12月29日

「もはやユダヤ人もギリシャ人もない」

ガラテヤの信徒への手紙3:23-4:7


 「あなたがたはバプテスマを受けてキリストと一体のものとなり、キリストを着て

いるので、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない」とい

う、主イエス・キリストを信じる信仰によって与えられる画期的な出来事、大いなる

自由を上から聞くことによって一年の最後の日曜日を過ごしましょう。

 このことが語られている前後の文章は、興味深いことに、主語が次々に変わってい

ます。「信仰が現れたのでわたしたちはもはや律法という養育係のしたにはいない」

というところは、「わたしたち」が主語、「あなたがたはバプテスマを受けてキリス

トと一体のものとなったので、もはやユダヤ人もギリシャ人もない」というところは、

「あなたがた」、また「わたしたちが未成年であった時は後見人の監視下に置かれて

いたが、時が満ちると律法の支配下にある者をあがないだして、わたしたちを神の子

になさった」、と語るところは「わたしたち」が主語です。そして、「あなたがたが

子であることは、神が『アッバ、父よ』と呼ぶ御子の霊をわたしたちの心に送ってく

ださった事実から分かります。ですからあなたはもはや奴隷ではなく子です。子であ

れば神によって立てられた相続人でもあるのです」と語るところでは、「わたしたち」

「あなたがた」「あなた」が目まぐるしく入れ代わります。どうしてこのようなこと

が起こるのでしょうか。ここでいわれている「わたしたち」「あなたがた」「あなた」

とは誰のことでしょう。律法の下で監視され自由を失っていたユダヤ人、キリストに

よって自由にされたキリスト者、先例を受けたガラテヤの人々、キリスト者全体、そ

してあなた、わたし。このような主語の目まぐるしい移転は、ある客観的な事実、自

然や歴史の出来事を伝えるものではなく、自分たちの精神の内側にある霊的な出来事

の内実を何とか共通のものとして所有することを目ざして、相手とこちらとの両方を

行き来していることからきていると考えることができます。イエス・キリストを信じ

ること、それによってはじまる新しい世界は、まさにそのような共同の所有とするこ

とができるようなことです。それは時代を超え、場所を超えて「あなたがた」「わた

したち」「あなた」の現実となりうることです。

 ここでは、「信仰が来る前」と「信仰が現れた時」と二つの時が明瞭に区別され、

このときを境に事態が大きく変わったことを言い表しています。「信仰が来る」とい

う独特の表現によって表しているのは、イエス・キリストが来られる時、ということ

で、イエス・キリストの全生涯、その生と死、復活のすべての事実を通して与えられ

た神の恵みの啓示を、わたしたちが信仰をもって受け入れる時の事を示しています。

イエス・キリストを信じる信仰が来るということは、画期的なこと、驚天動地のこと、

革命的なこと、もはや後戻りはないことを意味する、パウロはそのことをここで伝え

ようとしているのです。「わたしたち」も、この革命的なはじめを知っています。


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