19980215
1998年2月15日

「救いに導く知恵の書」

テモテへの手紙U3章10−4章5


「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導

訓練をする上で有益です」これはよく知られているみことばです。とくに福音主義

教会の信仰告白は、聖書を神のことばと信じる信仰をまず最初に言い表したものが

多くありますが、その信仰の根拠としてよく引用されます。ここでいう聖書はわた

したちが使っている新約・旧約の聖書ではなく旧約聖書のことを意味しますが、新

旧両約の聖書について同じように信じることには無理はありません。まさにこの書

物は、「キリスト・イエスの信仰を通して救いに導く知恵を与えることができる」

と信じることができます。

 ここで、聖書に親しみ学ぶように勧められている背景に注意すると、すでに牧会

書簡ではお馴染みのパターンですが、ここでも苦難と迫害の現実が浮かび上がりま

す。しかも「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は、皆迫害を

受けます」と衝撃的なことばがかたられ、そこで聖書に親しむように勧められるの

です。キリスト者はこの世では迫害を受けるのは当然だというのです。もっと賢く

なれば、もっとうまくやれば、もっと信仰が深かったら、苦しみなどない。この世

のとうまくやっていける。というのではないのです。

 信教の自由が保障されている社会には迫害などないのではないのです。主イエス

はわたしたちをご自身の十字架の苦しみの一端をになうことを通して、一人一人を

訓練し、いよいよご自身の近くに引き寄せてくださるからです。

 この苦難と迫害のなかで聖書の有益さがいよいよ明らかになり「救いに導く知恵」

を知ることになるのですが、この場合、聖書という本一冊がわたしたちの前に放り

出されているのではないということにも注意したいと思います。「あなたはだれか

ら学んだかを知っており、・・幼い日から親しんできた」と記され、聖書に生きて

いる共同体の存在を明らかにしています。聖書を読み、聖書を教え、小さいときか

ら心に刻み続ける家庭があります。そのような教会、共同体、家庭によって何代に

もわたって健全な良心が養われ、その中心を占めてきた聖書がここでは問題です。

書物だけが孤立している聖書ではなく、実証され、確信してきたことにしっかりと

立ち、離れてはならないと教えているのです。

 聖書を通して知らされる知恵はこの世の知恵ではありません。「神の霊の導き」

によって書かれたもので、それを書くことへと促した霊は、共同体を作り、またわ

たしたちの心の目を開いて、そこにある知恵を悟らせてくださいます。
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