2月23日
1997年2月23日

「エジプト滞在」

創世記12章10−20


 アブラハムの召命、主の呼びかけに応えて、主の指し示す地に向かって旅に出る、

これはすべてのキリスト者の信仰の生涯で経験することです。わたしたちも、アブ

ラハムと一緒に、旅をしましょう。

 ハランの地を出て、神の指し示すとおりカナンの地に向かったアブラハムとサラ、

そして甥のロトは、肥沃の地カナンに入ってくると、そこはカナン人たちの住んで

いるところでした。神の約束と現実のギャップの中でアブラハムは旅を続けます。

はじめはしかし、その旅も順調でした。主の名を呼び、主の祭壇を築く、主との関

係が正しい状態であるからです。しかし、全地に激しい飢饉が起こったとき、この

信仰の旅は狂いが生じます。もろい生活基盤の中で食べる物がなくなる恐怖と不安

は大きかったでしょう。アブラハムはしかし、再び父の家に帰ろうとはしませんで

した。自分で生き抜こうとしたのです。そしてエジプトにいる間、神に向かって呼

びかけることも神から聞くこともしなくなります。自分の中にある物的・人的な資

産で危機を乗り越えようとすること、まさに試練の中にあって罪に転がり落ちてい

く人間の様を物語っています。

 信仰の父アブラハムのエジプトでの出来事は大いなる恥辱の歴史です。美貌の妻

を妹と偽ってエジプト王パロの宮廷に送り込み、妻の性を売り物にし、それによっ

て安全を確保したばかりか、多くの財産を与えられ豊かになるのです。エジプトに

入る前にアブラハムがサライに言った言葉は印象的です。「おまえのお陰で」「お

まえによって」と何度もおまえのお陰で生きるのだと強調しています。その「お陰」

の浅薄なこと・・・。

 その結果は、不思議なことに神がアブラハムを打たれたのではなく、パロとその

宮廷の人々を激しい病気で打っています。そしてパロはことの次第を知るとアブラ

ハムを呼んで処罰するのではなく。実に人間的に財産付きで国外追放にするのです。

どうしてこんなことになったかわかりません。ただ確かなことは、アブラハムは試

練にあって信実ではなかったが、神はアブラハムにされた約束に信実であったとい

うことです。神の信実は人間の不信実にも関わらず、貫かれているのです。アブラ

ハムはこのような出来事に直面して、再び神を呼ぶ者となっています。御子の十字

架の死による贖いの恵みによってわたしたちを立ち帰らせる神のはからいのかたち

を、ここにも見ることができます。
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