199800301
1998年3月1日

「再生の洗い」

テトスへの手紙3章1−11


「しかしわたしたちの主である神の慈しみと人間に対する愛が現れたときに、神は

わたしたちが行った義の業によってではなく、ご自分の憐れみによってわたしたち

を救ってくださいました」

 このことばが集約された簡潔さで福音の内容をあらわしていることは明らかで、

ここでも初代教会のケリュグマに出会います。ここではこの「神の憐れみによる救

い」が「新しく生まれさせる洗い」、「新たに造りかえる洗い」という表現でキリ

スト者が教会に入会する礼典、バプテスマと結びつけられているところが特徴的で

す。

 キリストに出会うことによって与えられた救いについて、このようなことばで思

い起こすことがどういう状況で起こるのか・・・。テトスの手紙では教会を構成し

ているさまざまな階層の人に対して良き市民として生きるように教えていますが、

ここでも、年輩の人や若者に対して「だれもそしらず、争いを好まず、寛容で、す

べての人に心から優しく接するように心がけ」なければならないと教えています。

「だれにたいしても優しく接する」などということは、極めて当たり前の市民倫理

で、だれでもできそうで、またなかなか実行できないことです。そのようなことを

敢えて教会で勧める場合、どのような動機付けを与えることができるかが問題です。

それがここでは極めてキリスト教的と言えると思います。すなわち、「かつては思

慮がなく、かたくなで、迷い多く、欲望の奴隷であり・・・」とわたしたちのかつ

ての姿と、「しかし今や、神の憐れみによる救い」が現れた時とを対比させて、そ

こで、「だれに対しても優しく接しなさい」という戒めを真剣に受け取るべき根拠

としているのです。わたしたちの他者に接する態度は、自分の心の中にある鏡がど

のような像を映すかによって変わってくると思います。心地よい像を映したとき優

しい態度で接することができますが、いやなものの影を映したときは、わたしたち

の接し方も誠実とは言えないものになります。しかし、キリストの憐れみによる救

いの時をもっているものには、別の鏡が心の中にあって、この鏡に映しながら自分

の他者に対する接し方を決めていくのです。。それは、キリストの憐れみによる救

いが現れ、その恵みにバプテスマという時を通して確かにあずかったという、その

ときを中心に「かつて」のわたしと「いま」のわたしを対照させる心の鏡です。ひ

とは自然の鏡のほかにさまざまな鏡をもっています。しかし、「恵みの鏡」に照ら

し出されるとき、だれも誇ることはできないし、まただれかにたいしては無関心で

あったり粗暴であったりしてもいいということにはなりません。

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