01月05日
2003年1月5日

「心の目を開いて」

エフェソの信徒への手紙1:3-19


 「神はわたしたちをキリストにおいて天と地とあらゆる祝福で満たしてくださいま

した。天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、ご自分の前で聖なる者、汚れのな

い者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって

神の子にしようと御心のままい前もってお定めになったのです・・・。」

 この壮大な神への賛美を深く味わうことから新しい年を始めましょう。新約聖書の

中で、わたしたちが「天地創造の前に」キリストにおいて選ばれていることを記して

いるのはここだけです。神の祝福は、普遍的、一般的な誰にも平等に与えられる祝福

だけでなく、選択的な特別な恵みです。それは、一人の人がどのような経過をたどっ

てキリストを告白し、一生を主に従って歩んでいくことになるかを観察すると明らか

です。それは人間の決意や能力を超えて、神の恵みの選びにあずかること、と語られ

ることを納得することはそれほど難しいことではありません。しかし、ここでは、そ

の恵みの選びが「この世が想像されるよりも前に」計画され決定されている、という

のです。この世が想像される前ですから、人間の生命も土も水も光もない闇と混沌が

支配しているときです。それ以前に「わたしの救い」は決定されていた、と。このよ

うなことは、わたしたちの理性や完成をどんなに鋭くしても捉えられることではあり

ません。それ以前のことなのですから。それほどに、わたしたちの信仰と救いは、わ

たしたちの側の条件やわたしたちの決意によるのではなく永遠の神の決意によること

を悟らされます。

 しかし、このようなわたしたちの想像をはるかに超えた信仰的な言辞、讃美をわた

したちはどのように自分の中から語り出すことができるでしょうか。そのカギは、「

キリストにおいて」お選びになった、というところにあります。わたしたちはどんな

に感覚を鋭くして自分の内に天地創造以前のもの、永遠のものがあるか、を捜しても

何も見出すことはできません。人と比べて、少し優れているもの、劣っているものを

見出すだけでしょう。しかし、主イエス・キリストの内にあるものを見るとき、そこ

に真のはじめとおわりを見ることができます。そして、わたしたちは洗礼においてキ

リスト一体のものとなったのです。わたしの存在もまた天地創造以前のことになりま

す。キリスト者はそのように選ばれた者です。キリスト一体の者であれば、その死に

様に等しくなると共にその復活の様にも等しくなり、永遠性にあずかるものともなる

のです。洗礼を受けて「キリストのものとなる」ということは、そのようなはじめ、

出発点をもつものとなるということです。

 わたしたちの信仰は、わたしたちの内に信仰があるときに神が存在し、そのかぎり

において成長や進歩があることを信じるような断片的、偶然的、一時的なものではあ

りません。イエス・キリストにおいて示された神のみ心にことの根拠があります。こ

の確かなものと一体にされるのです。


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