01月12日
2003年1月12日

「わたしたちは信じます」

ヨハネによる福音書17:1-11


 礼拝でわたしたちが告白しているニケヤ信条の講解説教をはじめます。ニケヤ信条

は、性格にはニケヤ・コンスタンチィノポリス信条といいますが、使徒信条、カルケ

ドン信条、アタナシウス信条とともに世界の教会が信じ告白する基本信条の一つ、そ

の中でも最も古く基本的なものです。使徒信条はローマ教会の洗礼志願者の教育のた

めに洗礼告白として作られたもの。父なる神、子なるキリスト、聖霊を信じるという、

3項からなる三位一体の神についての告白です。ニケヤ信条は使徒信条と同じ構造で

すが、少し長く、また哲学的なことば、「まことの神よりのまことの神、造られずし

て生まれ、神と本質を一つにし」などと不思議な言葉が続きます。これは、初代教会

の激しい信仰の戦いの中から、聖書が証しする神を正しく表現し、この規準をもって

大きく変転する時代を貫いて教会を生きたキリストの教会として立たせてきた信仰告

白です。一つ一つの言葉の背後に深く正確な聖書の証しする神についての告白がなさ

れていますから、わたしたちはこれを解きほぐして、化石や過去の遺物ではなく、今

生きている言葉としてわたしたちも世々の聖徒とともに喜びと確信をもって告白する

ものでありたいと思います。

 「信条」をあらわすラテン語「シュンボルム」は、元来「割り符」をあらわし、二

つの府に押された割り印が一致するとそれが正当なものであることがわかるような「

しるし」を意味しました。従って、「信条」は、世界のキリスト者を一致させるしる

し、似て非なる異なる信仰を識別するしるしです。これによって、イエス・キリスト

を信じる信仰へと導く福音的な宣言がなされています。すべての民に与えられた喜び

の知らせがまことに喜びの知らせになるための核心がどこにあるかを正確に指し示し

ています。また、その福音がどこから来るのか、どのように聖書を読むべきかの指針

が他の見解を圧倒する権威をもって示されています。わたしたちの信仰は自分の信仰

の域にとどまり、聖書の言葉によって自分の暗闇が少し照らされることをもって足れ

りとする傾向があります。このような信仰では、わたしの生命と同じだけの生命力し

か持ちませんし、わたしが病むとともにわたしの信仰も病みます。聖書の福音はその

ような信仰を生み出すことにとどまるものではありません。ニケヤ信条の作成に中心

的な働きをしたアタナシウスは次のように言っています。「神を知る忠実な正確な方

法は、その外的な働きである創造のみ業から知るのではなく、神ご自身の永遠の御子

から知ることである。それが神が実際にどのような方でいますか、父としての神的な

性格はどのようであるかは、御子においてもっともよくあらわされているからである。

これと同じように、聖霊がなんであるかを知る敬虔な、また、正確な識別方法は、造

られた世界に存在するものの中で霊がどのように自らをあらわしているかということ

から認識を始めるのではなく、神、永遠の存在として、父と子の霊として知ることが

最も適切である。」この、「公同の信仰」を学びましょう。


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