ヨハネの手紙一3:19-4:6
ニケヤ信条の学びを始めましたが、この信条を概観してすぐに気づくことは、ここ には「三位一体の神」に対する信仰が告白されているということです。見えない、不 思議な、捉えがたい存在であるはずの神が、父・子・聖霊においてわたしたちとかか わりを持ってくださる存在として認識し、感謝と讃美の思いがこの告白を貫いていま す。いや、その存在によって世界とわたしたちがあると認識しているのです。現在に 至って、世界中の教会が一致を求める時、この信条を基盤にしなければならないと確 信して、それぞれの教会の中でしばらく忘れられていたこの信条の礼拝での使用を推 奨するようになっていますが、それも、この三位一体の信仰を回復しなければならな いという自覚があるからです。 聖書のことばの中に「三位一体」ということばはなく、このことばは、2世紀の神 学者テルトウリアヌスが初めて使ったといわれています。聖書にご自身を表しておら れる神は、唯一の神であるが、三つの位格(ペルソナ−ラテン語で元来「仮面」をあ らわすことばでした)において働かれることを神の「トリニタス」(三一性)と表現 したのです。マタイ28:19に、復活した主が弟子たちを集めて「すべての民をわ たしの弟子としなさい。彼らに父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け・・・」 やコリント二13:13に「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりがあ なたがたとともにあるように」など、既に、新約の教会で父と子と聖霊である神の名 を唱えて洗礼をし、祝福の祈りをし、讃美していたことをうかがわせることばは聖書 全般にわたって見ることができます。 ニケヤ信条や使徒信条のように、新約後の教会が三位一体の神を強く主張するよう になったのは、教会の内外でキリストをどのように信じるかをめぐってきびしい論争 があったことに起因しています。ヨハネの手紙の中に「反キリスト」ということばが でてきますが、これは「キリストが肉をとって来られたことを告白しない霊」です。 霊的な存在として人間に一時的に仮託したにすぎないキリスト、そこでは十字架の苦 しみは仮のこと、十字架も復活も神話的な出来事で歴史的な現実性がはっきりしなく なります。また逆に、キリストは単なるヒトで預言者以上のものではない。「神の子」 というのは「人間」という以上のことではないと信じるものもいました。主イエス・ キリストの「まことの人」であることと「まことの神」であることの結合・一致、キ リストが肉をとって来られたという受肉の神秘が強調されなければならなかったゆえ んです。この一見矛盾に見えることをあえて表現しなければならないのは、主の復活 の証人である使徒たちが伝えた信仰がそのようであった、ということと、そのキリス トの受肉の神秘、神と人との結合一致において神を告白するのでなければ、神を信じ ることが真の礼拝を生み出さず、また生きた信仰生活を生み出さない現実を見ている からです。