3月2日
1997年3月2日

「ロトとの別れ」

創世記13章1−18


 信仰の父アブラハムの歩み、大いなる恥辱の地エジプトから追放されて、ふたた

びカナンの地での生活。飢饉のためにエジプトに逃れていったアブラハムとその家

族は、エジプトを出るときは家畜や金や銀、その他大勢の僕、はしためなど財産

で一杯になって出てくるのです。神の祝福の約束は不思議な形で果たされます。し

かし、多くの財産をもって生きることは、今も昔も大きな試みです。飢饉の試みと

どちらが簡単ともいえません。そじて当然のように家族の中に争いが生じます。

 「アブラムの家畜を飼う者たちと、ロトの家畜を飼う者たちとの間に争いが起き

た」のです。生きる喜び、純粋な信仰の歩みはこの種のわずらわしさによって陰お

おいものとなり、神も人も信じがたくかたくなになっていくのを自分のなかにも、

人のなかにも見ます。

 アブラハムはこの試練の中でどのようにしたか、極めて簡単で明快な決断をして

います。「わたしたちは親類どうしだ。わたしとあなたの間ではもちろん、お互い

の羊飼いの間でも争うのはやめよう。あなたの前には幾らでも土地があるのだから、

ここで別れようではないか。あなたが左に行くなら、わたしは右に行こう。あなた

が右に行くなら、わたしは左に行こう」といい、ロトは緑あふれるヨルダン低地を

選んだので、アブラハムはユダの山地を選ぶことになったというのです。だれにも

解る寛容な度量の広い決断です。こうして財産という人間関係のなかにくさびのよ

うに割ってはいって人間の絆を切り離してしまうサタンの仕掛けを乗り越えました。

 どうしてこの簡単にして明快だが、自分の中ではなかなか出来にくい決断をアブ

ラハムはこのときすることができたのでしょう。その答えも簡単です。アブラハム

はエジプトでは忘れていた神を呼び祭壇を築く生活が復活しているからです。主な

る神との関係が正常であるからです。神を呼びながら、現実の問題と直面するとき、

今彼が持っているものがどこからどのように与えられたかを知ることが出来ます。

また、将来どのような約束が与えられているかを悟ることが出来ます。今起こって

いるやっかいなことの奥行きと先行きが見えてきます。ですからこだわりから解放

されるのです。まさにわたしたちの礼拝とはそのようにわたしたちの目を覚まし、

ことの現実にしっかりと直面する力を与えます。神はパロとその宮廷を打たれたこ

とを目の当たりに見て、アブラハムの信仰を目覚めさせているのです。
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