02月02日
2003年2月2日

「聖書と信仰告白」

申命記26:1-11;コリントの信徒への手紙一15:1-11


ニケヤ信条の学びにはいる前に、聖書と信条の関係を明確にしておく必要があります。

「旧新約聖書は神の霊感によってかかれたもので、信仰と生活との誤りなき規範」で

す。信条もまた三位一体の神への信仰へと導く権威のある規範です。両方の権威はど

のように関係しているのでしょう。

 教理の学びをすると、ここで、ローマ・カトリック教会とプロテスタント教会の間

に意見の相違があるということを教えられます。すなわち、カトリック教会では、使

徒たちによって伝えられた「聖伝」(これはニケヤ信条のようなかたちで結集されて

います)と聖霊の働きによって使徒たちやその周辺の人たちによって書き記された「

聖書」とは、福音の伝達方法として並行するものであり、両方を並ぶ権威あるものと

して認めます。そして、聖書と聖伝を解釈する権威は「教会の生きた教導権」をもつ

ローマ司教と結ばれた司教たちだと主張します。これに対してプロテスタント教会の

信仰告白は、「聖書のみ」という標語の下に、福音の真理の源は聖書以外にはないこ

と、そして、聖書の真理は聖書自身が聖霊によってわたしたちの心に証示してくださ

るものであって、「信条」はその聖書の真理に対する人間の応答であり、要約してい

るものにほかならない、と主張します。聖書は「規範スル規範」(noma nomans)、

信条は「規範サレル規範」(noma nomata)という関係だと。聖書と信条とが別々の

神を示しているのではなく、唯一の神、父と子と聖霊によってご自身を啓示される神

とその働きを指し示していることは間違いなく、信条も聖書の真理を越えて何かを語

るものではないことを明らかにしていかなければなりません。

 論争点から少し目をそらして、聖書の中にある重要な信仰告白的な文章に目をとめ

ると、申命記のさすらいのアラム人であったものが乳と蜜の流れる地に導き入れられ

たことを感謝する収穫感謝の信仰告白、新約のフィリピの信徒への手紙の「キリスト

賛歌」(神と等しくあることを固守すべきことと思わず、十字架の死に至るまで従順

であった・・・)や、コリントの復活証言(「聖書に書いてあるとおりわたしたちの

罪のために死なれたこと、聖書に書かれているとおり三日目によみがえられたこと、

はじめにケパに現われ・・・」)などを見てみると、ここには「神の働きを物語る」

という性格によって貫かれていることに気付かされます。神の存在や性格についての

定義ではなく、また神の前にあるべき人間の行為を規定しているものでもなく、また

ある特別な人間の神体験が記されているものでもありません。神がイスラエルにおい

て果たしてくださった救いの業、主イエス・キリストによってわたしたちの中でおこ

してくださった出来事、この大きな物語の要約、これが信仰の告白として礼拝の中で

用いられ、伝えられているのです。信条は、この大きな物語を想起させ、わたしたち

もこの関係の中に招き入れられる、命の源に導き入れる、そのような働きをしている

ものであることがわかります。


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