02月16日
2003年2月16日

「すべてを支配される父である神を信じる」

イザヤ書42:1-7;マタイによる福音書10:16-31


 キリスト者は全てを支配される父、全能の神を信じます。この信仰の告白がもたら

す独特の光に目をとめましょう。全能の父である神を信じるとは、「わたしたちの神

は天にいまし、み旨のままにすべてを行われる」(詩115:3)ということ、神は

すべてを創造し、すべてを始め、すべてがおできになる、と信じることです。聖書は

全編がその証しの書であるということができます。しかし、わたしたちの人生におい

て神の全能を認めるということは大いなる冒険、賭けを意味します。この世界の人間

の権力による横暴、自然の脅威、すべてが偶然に、運と不運によって動いているに過

ぎないような世界を「全能の父である神」が治めていると信じることはできるのか、

また例え、そのような支配を仮定したとしても、自分の自由の領域は確保していなけ

ればならないと考えます。「全能の父である神」を信じることは、人間の権力や支配、

自然の大いなる力の延長線上で考えるならば、そのような信仰は壁に突き当たってし

まうか、自分を神のように祭り上げるかのどちらかに向かうだけで、真の信仰には向

かいません。「父と子の関係がまず最初にあり、そこに中心を置くことによって、神

が全能の創造者であるという考えに近づくことができる。・・・神ご自身が自らを啓

示してくださり、また神ご自身が御子イエス・キリストによってご自身を与えてくだ

さったことにより・・・神がどのような方であり、神の父としての性格がどのようで

あるかを知ることができる」(T.F.トーランス)という案内者のことばを聞くこ

とが大切です。

 人間となられた神の御子、イエス・キリストによって神の全能を知るということは、

これはまた大いなる矛盾を克服しなければなりません。主イエスは「僕の姿」でわた

したちの中を歩まれたのですから。「他人は救ったのに自分自身は救えない。メシア、

イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがよい。それを見たら信じてやろう」と嘲

られつつ、「わが神、わが神、何ゆえにわたしをお見捨てになるのですか」と叫んで

死んだ方、そしてそこから復活された方をとおして、そこに神の全能のありかたが示

されている、聖書はそのようにわたしたちに証しします。人間の罪と死に最も遠い存

在が、最も近く、最も痛ましい様で、罪と死をご自身に引き受けておられるのです。

「その目的は、生きている人たちがもはや自分自身のために生きるのではなく、新で

復活された方のために生きることになるのです(コリント二5:15)といわれます。

聖書の証しする「すべてを支配される神」は、このように愛し、自らを与えられる神

に焦点を絞っています。ここには怒り裁く神とやさしく包む神との分裂、創造神と救

済神の分裂はありません。わたしたちはこの聖霊によって主イエス・キリストをわた

したちの心に刻み付けてくださった父である神を、「全能の神」と告白し、信じます。


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