イザヤ書42:1-7;マタイによる福音書10:16-31
キリスト者は全てを支配される父、全能の神を信じます。この信仰の告白がもたら す独特の光に目をとめましょう。全能の父である神を信じるとは、「わたしたちの神 は天にいまし、み旨のままにすべてを行われる」(詩115:3)ということ、神は すべてを創造し、すべてを始め、すべてがおできになる、と信じることです。聖書は 全編がその証しの書であるということができます。しかし、わたしたちの人生におい て神の全能を認めるということは大いなる冒険、賭けを意味します。この世界の人間 の権力による横暴、自然の脅威、すべてが偶然に、運と不運によって動いているに過 ぎないような世界を「全能の父である神」が治めていると信じることはできるのか、 また例え、そのような支配を仮定したとしても、自分の自由の領域は確保していなけ ればならないと考えます。「全能の父である神」を信じることは、人間の権力や支配、 自然の大いなる力の延長線上で考えるならば、そのような信仰は壁に突き当たってし まうか、自分を神のように祭り上げるかのどちらかに向かうだけで、真の信仰には向 かいません。「父と子の関係がまず最初にあり、そこに中心を置くことによって、神 が全能の創造者であるという考えに近づくことができる。・・・神ご自身が自らを啓 示してくださり、また神ご自身が御子イエス・キリストによってご自身を与えてくだ さったことにより・・・神がどのような方であり、神の父としての性格がどのようで あるかを知ることができる」(T.F.トーランス)という案内者のことばを聞くこ とが大切です。 人間となられた神の御子、イエス・キリストによって神の全能を知るということは、 これはまた大いなる矛盾を克服しなければなりません。主イエスは「僕の姿」でわた したちの中を歩まれたのですから。「他人は救ったのに自分自身は救えない。メシア、 イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがよい。それを見たら信じてやろう」と嘲 られつつ、「わが神、わが神、何ゆえにわたしをお見捨てになるのですか」と叫んで 死んだ方、そしてそこから復活された方をとおして、そこに神の全能のありかたが示 されている、聖書はそのようにわたしたちに証しします。人間の罪と死に最も遠い存 在が、最も近く、最も痛ましい様で、罪と死をご自身に引き受けておられるのです。 「その目的は、生きている人たちがもはや自分自身のために生きるのではなく、新で 復活された方のために生きることになるのです(コリント二5:15)といわれます。 聖書の証しする「すべてを支配される神」は、このように愛し、自らを与えられる神 に焦点を絞っています。ここには怒り裁く神とやさしく包む神との分裂、創造神と救 済神の分裂はありません。わたしたちはこの聖霊によって主イエス・キリストをわた したちの心に刻み付けてくださった父である神を、「全能の神」と告白し、信じます。