02月23日
2003年2月23日

「父である神」

エゼキエル書34:1-16;マタイによる福音書11:25-30


 ニケヤ信条は「わたしたちは全能の父である神を信じます」と告白します。神を父

と呼ぶことは主の祈りでも教えられること、また「アバ、父よ」と呼ぶ主イエス・キ

リストの霊をいただくことは、キリスト教の信仰のはじめであり終極の目的です。神

を父と呼び、父なる神に祈ることによって、わたしたちは何を意味しているのでしょ

うか。「おもに二つの面を示します。神は一切のものの根源で、超越的権威であるこ

と、また同時に、すべての子らを配慮されることです」(「カトリック教会のカテキ

ズム」)。「天と地とそのすべてのものを無から創造され、それらを永遠の熟慮と摂

理によって今も保ち支配しておられるわたしたちの主イエス・キリストの永遠の御父

が、御子イエス・キリストのゆえにわたしたちの神、また、わたしの父であられると

いうことです。・・・」(「ハイデルベルグ信仰問答26」)。これらのことばに教

えられていることはきわめて重要なこと、また、繰り返し語られてきた基本的なこと

です。

 神を「父」と呼ぶことは、神を男性的なものとし、男性による女性支配を理由付け

るもの、家父長的・封建的な権威を温存させる元凶として、このような呼び方を忌避

する感覚が今日の教会の一部に広がっています。聖書が神を「父」と呼ぶことによっ

て、神の男性性、女性性が問題になっているのではないということは、よく理解して

おかなければなりません。イスラエルの信仰がどれほど男性女性の性的な結合による

生産性、多産豊饒の神々への信仰に対してきびしく対峙してきたかを考えれば、すぐ

に分かることです。神を「父」と呼ぶことは、人間の父と母、その役割を考え、その

延長線上に、「それに似た神」を想定しているのではありません。主イエス・キリス

トが「わたしの天の父」と呼んでいる方を、わたしたちも主イエス・キリストに促さ

れて「アバ父よ」と呼んでいるのです。天の父は御子の存在によって「父」とされ、

御子イエス・キリストのことばによって父としての存在の輪郭が明らかにされます。

そして、主イエス・キリストと共に「天の父よ」と呼んで祈る時、わたしたちの存在

の位置と目的、「わたしはだれか?」がはっきりしてきます。

 主イエス・キリストは「わたしの天の父」「あなたがたの天の父」をどのように言

い表しておられるか、福音書の言葉によって確かめてみると、よく祈ることができる

ようになります。「疲れたもの、重荷を負うものは、誰でもわたしのもとにきなさい。

休ませてあげよう」という主の呼びかけは、その前に、「すべてのことは、父からわ

たしに任されています。父のはかに子を知るものはなく、子と、子が示そうと思うも

ののほかには父を知るものはいません」ということばがあります。「重荷を負う者」

を「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」とわたしたちを招かれるのは、主ご自

身であり、その思いは全能の創造者である天の父のみ思いなのです。


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