03月30日
2003年3月30日

「摂理の信仰」

詩篇104;マタイによる福音書6:25-34


 キリスト教の信仰の基本、天と地の創造者である神を信じることは、神の「摂理」

を信じることを含みます。「摂理」とは、神が創造された世界を、御手をもって今な

お保ち、支配しておられる、ということで、この信仰によって、「木も葉も草も、日

照りも、豊作の年も不作の年も、食べ物も飲み物も、健康も病も、富も貧困も、すべ

てが偶然によることなく父親らしい御手によってわたしたちにもたらされる」(ハイ

デルベルグ信仰問答)と受け止めることができます。私たちが日々経験すること、目

の前で展開される様々な出来事を見る基本的な視点がここに定まります。この世界は、

目に見えるものに本質があるのではない。「この世界は神の言葉によって想像され、

従って、見えるものは目に見えという信仰は、今起こっている出来事の中にも、その

背後に見えない神の言葉が響き渡っていることを聞き取ろうとするのです。

 神の「摂理」を信じる信仰を最も美しく表現しているのは、「山上の説教」の中に

ある「野の百合、空の鳥」主イエスの言葉です。ここで、「何を食べようか、何を着

ようかと思い悩んではならない」と語られています。「思い悩む」の原意は、広い範

囲のことをあらわします。世話をする、関心をもつ、心配する、不安になる、思い煩

う、悩む、ということで、ただ悩み苦しむというニュアンスだけでありません。わた

したちは生きる時、何かを期待し、願い、計画します。それが達成され、実現し獲得

するまでの思い、期待と実現の間の思いが「思い悩む」と訳されていることばです。

したがって、それは生きることそのものです。何を食べるか、これは生命の基本に関

わること、何を着るかは、どのように自分らしさを表すかで、これに関心を持たない

人はいないでしょう。まさにこのところで、わたしたちは不信仰になる。だから、主

は、空の鳥やのの花によく目をとめ、それらがどのように生きているか育っているか

を学びなさいというのです。なぜ生きることへの関心が信仰とかかわりがあるのでし

ょう。自分の命への関心、装いへの配慮が不安と心配、怒りや悩みへと発展して行く

あなた、そのあなたの命は、空の鳥や野の花を造られたのと同じ「天の父」であって

同源であること、ソロモンの栄華にも及ばないような一つの花の装いは、あなたを造

られた天の父の配慮があること、そのように目に見えるものの背後にあるものを正し

く見ること、その配慮を知ること、ここに信仰があるからです。「あなたがたの天の

父はこれらのものがあなたがたに必要なことを御存じである。」摂理のしんこうは、

従って、私たちが生きるあらゆる領域で、あらゆる瞬間に関わります。「逆境におい

ては忍耐強く、順境においては感謝し、将来については私たちの真実な父なる神に信

頼し・・・」主イエスは、このような信仰に生きることを教えます。そして、そのよ

うに天の父との正しい関係に生きることへとわたしたちを招きます。


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