04月13日
2003年4月13日

「堕罪」

エレミヤ書17:1-4、9-12 ローマの信徒への手紙6:12-23


 受難週の歩みは、神の御子、主イエス・キリストがわたしたち救いのために十字架

への道を歩まれたことを覚える歩みです。何ゆえに、聖なる至高の権威をお持ちの方

が、十字架という刑罰を受け、そのような痛みと恥辱によって、わたしたちに救いを

もたらされたのか、人間とは一体何ものなのか、という大きな問いに直面させられる

時です。神のかたちに造られた人間、神が造られたものすべてをすべて治める男と女、

そのような栄光を与えられた人間は、しかし、また「人の心は何にもましてとらえ難

く病んでいる」という姿をあらわしています。これは、今わたしたちが日々見聞きす

る世界の現実でもあるでしょう。

 聖書は、これを神の像として造られた人間の、神への反逆、謀反、堕罪に起因する

ものと見ています。そしてその堕罪の歴史を人類の始祖アダムとエバの楽園追放の物

語によって語るのです。よく知られているように、この物語は人間のまことにささい

な弱さが問題にされています。園の中央にある善悪を知る木の実だけは食べてはいけ

ない、必ず死ぬから」と神にいわれたことを、蛇の誘惑によってエバが、そしてアダ

ムが、食べてしまったというのです。人には既に神の造られたものに名前をつける知

識と権威が与えられています。神に聞いて神と対話する言葉が与えられています。神

がもたらしてくださるすべての実りを食べて、自分の命に取り込むことができる、人

間にはそのような自由が与えられています。しかし、善悪を知る知識の実だけは食べ

ることができません。それは神のみ自由にできること、神との対話の中で聞くべきこ

とだからでしょう。そのような祝福の中で堕罪が起こっています。それは「善悪の木

の実を食べた」という行為の結果の責任ではなく、「神のように賢くなれる」という

願いに基づいて、神の戒めに背いた人間の心がもたらしたものです。その結果は、即

死ではありません。神のように賢くなるのでもありません。目が開けて自分の裸であ

るのに気付かされたのです。自分を他者から、神から隠さなければならない、神では

ない人間の姿。このようなものとして、自分の罪の責任を自分で負うことができなく

なります。「あなたの造られた女が・・・」と罪を他者に転嫁し、生みの苦しみ、労

働の苦しみの果てに、死んで土に帰る・・・。堕罪と楽園追放の物語はまともに生き

ているつもりのわたしたちの心に、ドキリとさせる何かの衝撃を与えずにはおきませ

ん。

 何ゆえに、このような人間の始祖の堕罪物語を通して人間の罪の根源性、全体性、

必然性をあらわにするのか、それは、主イエス・キリストのあがないの恵みの根源性、

全体性、必然性が明らかにされているからです。「人はみな罪を犯して神の栄光を受

けられなくなっており・・・ただ、キリスト・イエスによるあがないの業を通して、

神の恵みにより・・・」と語られる事態、第二のアダムとしてのキリストを知ってい

るからです。


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