04月20日
2003年4月20日

「キリスト共に神の内に隠されている命」

コロサイの信徒への手紙3:1-4


 イースターで洗礼を受けられる方と共に、洗礼の恵みにあずかったわたしたちがど

のように生きるべきか、コロサイの信徒への手紙を通して聞きましょう。わたしたち

が福音を聞き、主イエスを知り、しゅに従うものとして生きるようになるのは、全く

何もない精神的空白の中で起こることではありません。長い間生きてきた思想、生活

習慣、文化の濃厚なスープによって生きている者が新しい生き方をはじめます。そし

て、回心して新しい生活に入っても、それまでの生活が変わるわけではありませんし、

教会の人間関係が特別に変わったものでもありません。そのなかでどこに目をとめて

生きるのか、これを最も的確に教えているのがコロサイの信徒への手紙です。ここに

は、「あなたがたは、主イエス・キリストを受け入れたのですから、キリストに結ば

れて歩きなさい」とか「頭であるキリストにしっかりとつく」ようにとの、単純にし

て明解な背骨となる教えが語られています。そして、この「キリストに結びついて歩

む」ことは、キリストの死に結びつき、キリストの復活に結びつくことだと教えられ、

そのうえで、「あなたがたはキリスト共に復活させられたのですから、上にあるもの

を求めなさい」と勧められます。これがキリスト者の生活の指針です。

 「あなたがたは復活させられた」と過去形で語られていることに注目しましょう。

これは言葉の矛盾です。「復活」は死者の中から引き上げられること、したがって、

蘇生することや気分を一新することとは質が違います。死んだものでなければ復活す

ることはないのです。生きているわたしたちが「復活した」と過去形で語られるはず

はないのです。にもかかわらず、「あなたがたはキリスト共に葬られた」、「あなた

がたはキリスト共に復活させられた」といわれます。わたしたち生きているものは何

度でも死ぬのではありません。一度限りの死に向かって生きているのです。しかし、

この一度限りの死、取り返しのつかない時を、既に過去の事とし、「キリスト共に復

活した」という時の中で、わたしたちは生きることができる。ここで語られているこ

との重大さをしっかりと受け止めなければなりません。わたしたちは最終決定的な時

を肉体の死の時にではなく、洗礼にあずかる時に経験するのです。

 「キリスト共に復活させられた」ということが、観念上のことではなく、日常生活

に生かされるためにはどうすればよいのか、これについて、「上にあるものを求めよ」、

すなわちキリストにあるものを求めよ、といわれます。エフェソの手紙では、これを、

「愛に根ざし、愛にしっかりと立つ」生活と表現していますし、コロサイの手紙では、

「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身につけなさい」と具体的に示しています。

これらは、自分の中にもともとある性格ではなく、キリストのうちにあるものです。

「あなたがたの命はキリスト共に隠されている」のですから。


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