05月04日
2003年5月4日

「祝福の契約と選び」

創世記12:1〜9、;ヘブライ11:8−16


 聖書は、神によって「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と祝福される存在として造ら

れた人間は、犯した罪によって楽園を追放され、呪われた者として全地の面に散らさ

れ、言葉を乱されて混乱と孤独の中に生きなければまならなくなった、創造と堕落と

から、つぎに神の民の選びとその民を通して救済の歴史がはじまります。アブラハム

に始まる神によって選ばれた民と神との関係を通して、父・子・聖霊なる三位一体の

神の本質が明らかにされます。

 アブラハムが全地に散らされて行く民の中から選ばれ、「地上の氏族はあなたによ

って祝福に入る」という破格の恵みこあずかったのは何故か、その理由は分かりませ

ん。アブラハムの家族も全地に散らされて行くものとして、カルデヤのウルからハラ

ンに、そして、カナン、エジプトと放浪を続け、さらに、妻のサライは「不妊の女で

子どもができなかった」という祝福から見放された者としての輪郭が明らかにされて

いるだけです。ただ、神の圧倒的な「私はあなたを祝福する」という決意と意志だけ

が、その選びの理由です。しかし、アブラハムは「あなたは生まれ故郷、父の家を離

れて、私が示す地に行きなさい」という神の呼びかけにたいして、そのとおりに応え

た、そこから神の民の歴史、主イエス・キリストに通じる道が開いています。

 神の呼びかけには、この二つの面があることに注目しましょう。

「離れる」ことと、「神の指し示すところに向かって歩みだす」ことですこ父の家、

親しい交わり、命を支えあう仲間、生きて行く意味を確認する場から離れて、全く違

う方向から語りかけられる言葉に従って歩み始める、これが「召命」ということです。

それによって祝福から堕ちた人間が、再び祝福を回復する歴史がはじまります。「祝

福」とは、「生命が溢れること、生命が満ちあふれ、それが外こ流れ出ることです。

反対に、「呪い」は生命が奪われ、痩せ細り、気息奄々になることです。罪を犯した

人間の堕落の歴史はのろいの連鎖、アブラハムに約束された祝福は、のろいの連鎖を

断ち切って祝福に変えられることを意味します。

 「地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」という約束は何と言う喜ばしい

約束でしょう。祝福の源流、祝福の基、一人の人の神の指し示すところに向かって歩

みだす生活があるところで、そこから祝福が全地に及んで行くという新しい流れが始

まる。アブラハム、イサク、ヤコブと続いて行く中で、この約束の実証がされ、また

新たに繰り返されます。


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