06月01日
2003年6月1日

「これはわたしの愛する子」

ヨブ記19:21-27;マタイ3:13-17


 ニケヤ信条の第一項「天と地の創造者である父なる神を信じる」から、第二項「神

の独り子主イエス・キリストを信じる」という告白に進みます。私たちの救いとなる

べき神の恵みが最も中心的に語られます。その構造は、はじめにイエス・キリストが

神と本質を一つにすること、すなわちキリストの人格の秘密が語られ、ついで、その

キリストのまことの神、まことの人としての存在と働きは「わたしたちのため」であ

ること、更に、主イエスの受肉・苦難と死・復活・昇天・栄光化・再臨の歩みを通し

て私たちの救いが全うされたことを明らかにし、このイエスを主と信じることが告白

されています。

 宗教改革者マルティン・ルターは、信条によってキリスト教の教理を学ぶことの意

義について、次のように言っています。「自然と歴史のうちにお会いする神は外部か

ら知る神にすぎない。それはちょうど、私たちが城を見て城主がいるに違いないと結

論するのと同じである。しかし、聖書に基礎をおいたキリスト教の知識により、キリ

スト教の神認識により、わたしたちは『内部から』、『本質の面から』神を知る。ま

た、そこに神の人に対する御心、すなわち、人が救われるようにというこころみを見

る。その時、わたしは神を父・御子・聖霊として知るのである。」確かに、私たちは

聖書の証言によらなければ、イエス・キリストを「まことの神」、「まことの人」と

して主と告白することなど思いもよらないことでしょう。神を外側からではなく内側

から知ることによって、どれほどの恵みの深みを知ることになるか、生きて働く網の

御業、御思いをここで最も確かに知ることになるのです。大いなる喜びを持ってこの

ことを伝えることがなければ、私たちの生きる意味の大半は失われます。

 主イエスが「神のひとり子」との告白は、福音書に記されているイエスの洗礼の記

事からも出てきます。そのとき天が開けて聖霊が鳩のように降ってくるのをご覧にな

ったこと、天から声があって「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」とい

う声が聞こえた、と。前後の文脈から「神の子」といわれているのがどのようなこと

であるかよく読むと、これは、イエスの超人性、異常な自意識が明らかにされている

のではありません。イエスの人としての神の義への服従が強調されています。罪の悔

い改めのバプテスマに自己を服させる、この「まことの人」の生きる姿を「わたしの

子、心に適う者」と天が語っているのです。「神の子」が語られるところで「人の子」

の従順な姿が鮮明になるのです。


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