ヨエル3:1-5;使途言行録2:22-36
ペンテコステの時、激しい風、炎のようは舌とともに主イエスの弟子たちに下った 聖霊は、一人ひとりの中に大胆に神の大いなる御業を、人種と言葉の隔てをこえて、 語り伝える力を与えました。いまわたしたちに与えられている課題は、そこで語り伝 えられた言葉の内容、復員の中心的なメッセージは何であったかを知ることです。ニ ケヤ信条に要約された信仰告白はその内容を伝えています。それは、ちょうど車輪の すべての力が車軸に集中しているように、「一人の主イエス・キリスト」に集中し、 そこからすべての働きと力が出ていることを証しています。 「主イエス・キリストを信じる」という短い言葉を構成している「主」「イエス」 「キリスト」は、その内容をよく検討すると、簡単に自動的に結びつく言葉ではあり ません。三つのことばの結びつきが如何に不思議な、思いもよらない結びつきである かを生き生きと物語っているのは、ペテロがペンテコステの出来事の後、最初に人々 に語った言葉です。「あなたがたは律法をしらない者たちの手を借りて十字架につけ て殺してしまった」、「神はこのイエスを復活させられたのです。」「だから、イス ラエルの全家ははっきりと知らなくて名なりません。あなたがたが十字架につけて殺 したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」十字架につけられたイ エスを信じるということと、ナザレのイエスの存在においてキリスト、主と信じると いうことはどれほどのことか、パウロはこれをユダヤ人には「躓き」、ギリシャ人に は「愚かなこと」と言っています。最初の弟子たちが聖霊を受けて語ったのはこのこ とでした。聖霊は、このことをわたしたちにも信じさせ、そこに救いの力を見出し、 語るものとされるのです。 使徒たちが語っていることは、ナザレのイエスがあなたがたに何をしたかではあり ません。ナザレのイエスと神との関係、ああたがたとナザレのイエスとの関係、あな たがたのための存在としてのイエスのことが語られています。神がイエスによって何 をあなたがたのためにしたかです。パウロは「罪を取り除くために御子を罪深い肉と 同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断された」と記しています。 まさに、キリストの人格の本質、その本質においてこの世を生きる歩みそのものが、 わたしたちの救いとなることを言い表しています。「イエス・キリストの名」を信じる、 「イエス・キリストの名」によって洗礼を受けるということは、主イエスの生活のあ れこれの断片ではなく、生と死、復活の全体、人格の本質にあずかることを意味しま す。