06月15日
2003年6月15日

「神の独り子、主」

ヨハネによる福音書3:16-21


「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛されました。独り子を信じるもの

が一人も滅びないで、永遠の命を得るためです」

 この有名なことば、この一言によって聖書全体を要約しているといわれるみことば

が、わたしたちが、大人も子どもも、一つになって礼拝することができる理由を明ら

かにしています。神が独り子をお与えになったほどに愛されたのは、「世」であって、

そこには大人も子どもも、義人も罪人もみんな含まれます。ヨハネによる福音書によ

れば、「世は言によって成ったが、世は言を認めなかった」といわれます。世は反抗

的、敵対的に神から遣わされた独り子、この世を造った主、「言」を扱います。にも

かかわらず、神は世を愛されたのです。それも、最も大事な、かけがえのない独り子

をお与えになったほどに。神の愛は、徹底して「与える愛」です。それも、愛する価

値があるから与えるのではありません。反抗するものも、罪人も、その愛から見放さ

れることはないのです。神の愛が与える愛であることを一貫して示されたのが神の独

り子・主イエス・キリストの生涯の全体です。罪人のためにご自身の命を引き渡し、

十字架の死によってすべての人の罪を引き受けられました。罪人にまで自分の命を与

える愛、このような愛をわたしたちはほかに知ることができるでしょうか。教会の礼

拝は御言葉によって主イエス・キリストを思い起こし、神の愛を覚えるときです。だ

から、ここには世の人はだれも招かれています。大人も子どもも、正しい人も罪人も。

 「御子を信じるものは、一人も滅びないで永遠の命を得る」と記されていることに

注意しましょう。「イエスを信じるものは」ではなく、「御子を信じるものは」とな

っています。どうしてでしょう。イエス・キリストに出会い、イエス・キリストの大き

な力に感動し、キリストの人格と愛に触れ、キリストを信じるようになる、それだけ

では「御子を信じる」ことにならないからです。「信仰が見えなければならないのは、

目の前にキリストを置き、キリストを見ることによって、神の心より注ぎ出されてい

る愛をしっかりととらえることである」と、カルヴァンは教えています。キリストの

存在と働き、十字架の死と復活を通して、そこに神の御子がいること、独り子お与え

になるほどに世を愛されたその神の愛があることを見なければなりません。わたした

ちの命は、この神から始まり、この神によって終わるのです。神の御子を信じる者が

永遠の命を得るのは、神の愛の賜物です


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